山の雑記帳2

 山 を 撮 る 1997.11.7 記

 私 の 登 山 靴 1997.11.14 記

 山 の 本 1997.11.17 記

 今年は頑張ろう 1998.01.05 記

 雪 化 粧 1998.01.19 記

 何たる体たらく 1998.02.01 記

 暗闇の中の登山 1998.02.05 記

 途中での登頂断念(with PHOTO四阿山2) 1998.02.09 記

 登れなかった山 1998.02.20 記

 これまでかかった運賃の現在の値 1998.02.28 記


●これまでかかった運賃の現在の値 1998.02.28 記

今はほとんど原型を止めていない富士通の FMV (FMV DESKPOWER D5133D5 SP) にプリインストールされていたソフトで、現在までこまめにバージョンアップしてきたものは、 インターネットエクスプローラ (現在 Ver.4.01)、一太郎 (現在 一太郎8 Office Edition/R.2)、 ウィルスバスター (現在 ウィルスバスター97 Ver.1.05J)、 そして駅すぱあと (タイムスタンプ 1998/2/1)である。
この駅すぱあとというのは、今更説明を要しないであろうが、日本全国の鉄道を網羅していて、 出発地から目的地までの経路検索、ダイヤ検索などを行うのに便利なソフトである。
その駅すぱあとに関して先般今後 1年間の更新契約の案内が送られてきた。 これは、今後1年間に6回(ほぼ2ヶ月に1回)、その時点における最新の時刻表や運賃、路線の新設・廃止状況などを織り込んだ新しいバージョンが送られてくるもので、 契約料金は税込みで 10,500円である。

駅すぱあとを単体で買えば市価 19,800円するわけであるから、 年 6回新しいバージョンが送られてくるということは充分にペイすると考えられるのであるが、 冷静に考えてみるとこの駅すぱあとの使用率は私の場合、月 2、3回あるかどうかで、 鉄道マニアでもなければ、会社で旅費計算を行っているわけでもなく、たまに山へ行く際の運賃計算や、 経路の検討に使っているのみなのである。
従って、今回は更新することを止めようと思っているのであるが、この駅すぱあとを使って、 過去に登ってきた百名山を現在もう一度登りなおしたらどれくらい運賃がかかるかを計算してみたのが下記の表である (それ程ヒマではないのだが、一度はやってみたかった)。

実際は、この他に飛行機やバス、タクシー、そしてマイカーを利用しており、 数回登っている山もあるのだから大変な金額を投資してきたことになる (そのほかに宿泊費用などもある)。
この金を貯金していたらとは思わないし、山登りを始める前はゴルフのために 1月 2万、3万円とつぎ込み、 それでいて伸びないスコアに気分が悪かった頃を考えれば、投資先として登山は素晴らしいものだと思う。
達成感を得られ、今まで見たこともない素晴らしい景色に心が躍り、大変な行程を登ってきた自分自身を誇りに思い、 ストレス解消、身体も丈夫になるなど言うことなしである。
足腰が立たなくなるまで続けていきたいと思う。

しかしそれにしても、約 50万円近い結果をみて、以外に少ないなあと感じたのは私だけであろうか。
(注):下記の山は往路または/かつ復路に鉄道を利用した山に限って記載してある。

山 名往  路復  路乗 車 券料 金合  計
丹沢山瀬谷−渋沢橋本−瀬谷980円−円980円
大菩薩嶺瀬谷−塩山塩山−瀬谷3,6003,600
両神山瀬谷−三峰口西武秩父−瀬谷3,6306204,250
雲取山瀬谷−奥多摩三峰口−瀬谷4,2404,240
金峰山・瑞牆山瀬谷−韮崎韮崎−瀬谷5,5005,500
富士山瀬谷−富士吉田御殿場−瀬谷3,6903,690
鳳凰山瀬谷−韮崎甲府−瀬谷5,5005,500
甲武信岳瀬谷−塩山塩山−瀬谷4,2404,240
甲斐駒ヶ岳瀬谷−韮崎甲府−瀬谷4,8204,820
蓼科山瀬谷−茅野茅野−瀬谷6,6102,2908,900
天城山瀬谷−修善寺伊東−瀬谷4,0004,000
赤城山瀬谷−前橋前橋−瀬谷5,5005,500
開聞岳西鹿児島−開聞山川−大村8,8103,86012,670
那須岳瀬谷−黒磯黒磯−瀬谷6,9803,23010,210
男体山瀬谷−東武日光東武日光−瀬谷4,4204,420
常念・槍・笠ヶ岳瀬谷−豊科高山−瀬谷12,51010,20022,710
八ヶ岳瀬谷−茅野松原湖−瀬谷7,2401,0308,270
木曽駒ヶ岳・空木岳瀬谷−伊那市新宿−瀬谷5,0301,0306,060
苗場山瀬谷−越後湯沢越後湯沢−瀬谷8,2406,46014,700
越後駒ヶ岳瀬谷−小出越後浦佐−瀬谷9,7008,16017,860
谷川岳瀬谷−土合土樽−瀬谷8,6202,91011,530
霧ヶ峰瀬谷−上諏訪上諏訪−瀬谷6,9805,22012,200
磐梯山・安達太良山瀬谷−猪苗代二本松−瀬谷10,0208,16018,180
九重山大村−豊後中村豊後中村−大分5,1302,8908,020
黒・鷲・黒部・薬師瀬谷−信濃大町有峰口−瀬谷16,20011,92028,120
奥白根山瀬谷−東武日光東武日光−瀬谷4,4204,420
北・間ノ・塩見岳瀬谷−甲府伊那大島−瀬谷6,5602,6109,170
四阿山瀬谷−上田上田−瀬谷7,6006,06013,660
白馬岳瀬谷−白馬白馬−瀬谷10,6207,98018,600
石鎚山松山−伊予西条伊予西条−松山3,1603,3206,480
鹿島槍ヶ岳・五竜岳神城−南小谷230230
雨飾山南小谷−瀬谷5,1202,8207,940
大 山大阪−米子小倉−南宮崎11,66010,10021,760
剣 山徳島−貞光貞光−徳島2,1202,120
火打山・妙高山長野−妙高高原他妙高高原−瀬谷6,5004,08010,580
早池峰山瀬谷−新花巻新花巻−瀬谷16,84010,66027,500
高妻山平塚−長野4,9404,0809,020
美ヶ原長野−松本松本−瀬谷4,8602,6107,470
岩木山弘前−青森650650
八甲田山青森−弘前他880880
恵那山瀬谷−中津川中津川−岐阜8,9705,25014,220
伊吹山岐阜−近江長岡近江長岡−瀬谷7,5005,25012,750
大峰山瀬谷−下市口下市口−瀬谷18,54011,58030,120
赤石岳・悪沢岳瀬谷−静岡静岡−瀬谷5,9605,84011,800
立山・剱岳瀬谷−新宿立山−瀬谷9,0705,38014,450
大台ヶ原大阪阿部野橋−大和上市大和上市−瀬谷10,2807,16017,440
合  計308,670162,760471,430

●登れなかった山 1998.02.20 記

人間の記憶などはいい加減なもので、先日この 「山の雑記帳」 に、 「登る途中で引き返した山は四阿山だけ」 と書いたが、よくよく考えてみたらその他に 2つ程あったことを思い出した。
一つは、1989年の 7月、丹沢以外の山も登り始めて山登りが面白くてたまらなかった頃、 毎日降り続く梅雨にイライラさせられて山に登りたいという思いが募り、梅雨空の中を飛び出して目指した 鹿留山 (シシドメヤマ)・杓子山 (シャクシヤマ) である。

富士急行の下吉田駅から延々と車道歩きを重ね、 鉱泉の横を過ぎてから山の中へと続く車道を登っていったのだが、途中 左手にある杓子山・鹿留山への登山口 (鳥居地峠) を見事に見過ごし、そのまま下り坂に変わった車道を歩いて、麓の部落 (内野) に着いてしまったのである。
そこで道を聞けばよかったものの、何とかなるさ という思いで、部落の中の道を前方に見える山に向かって進んでいったのだが、 やがて道は化粧品会社の研修所を過ぎて再び山の中に入っていくことになり、クネクネした車道を登って着いた所が 二十曲峠であった (大きな石碑があってそれが分かった)。

この二十曲峠までずっと車道歩きだったことから、進んでいる道が間違っていることには とっくに気づいていたものの、少し意固地になっていたのだと思う。
二十曲峠にあった四阿 (あずまや) で次はどうしようかと考えてみたが、ガイドブックを見るとそばに 石割山があるではないか。それではとそちらへ登ってみることにした。
しかし、石割山は二十曲峠からはあっという間の距離で、登り甲斐がほとんどなく、おまけに頂上は霧の中で全く視界が得られなかったため欲求不満が募るだけとなったため、 今度はそこから 御正体山へと向かってみることにした。
しかし、霧の中で確かな地図も持たない身では心細さが増してくるばかりで、さらにこれからどれ位時間がかかるかも分からない状況だったので、 草や木で道が荒れて不明瞭な場所に着いたのを機に、引き返すことにしたのである (一昨年の末に逆方向から縦走してきた時には道は明瞭であった)。

再び石割山を経由して二十曲峠まで戻って次の行動を思案したが、 ガイドブックの地図を見ると二十曲峠から当初の目的である 鹿留山・杓子山へ尾根伝いに行けるようになっていることが分かったので、 意を決して道路工事中の所から尾根に取り付き、鹿留山・杓子山を目指すことにした。
草木の中にわずかに見える踏み跡を頼りに登っていったのだが、ノバラのような木が多く生え、また梅雨に濡れた草をかき分けながら進むという苦労の連続で、 それでもどうにか登っていくと、地形図を作る際に航空写真で場所が分かるように設置された (のだと思う) 白い目印が置かれている場所にたどり着いた。
そこから先は道も明瞭になっていたので安心したのだが、道はすぐに下りとなり、そのままドンドン進んでいくと、 何と今朝ほど登ってきた二十曲峠へと続く車道へと出てしまい、振り出しに戻ることになってしまったのである。

こうなるとさすがに疲れ果て、仕方なく今朝方辿ってきた道を下吉田まで戻ることにしたのだが、 内野の部落を過ぎて再び山にかかる車道を進んでいくと、道の右側に 杓子山・鹿留山への標識があるではないか。
今朝方はこれを見過ごしてしまったことに気づいたのであるが、最早 杓子山・鹿留山へと向かう元気も出ず、 そのまままた延々と車道歩きをして下吉田駅へと戻った次第である。

そしてあれから 9年近く経つ今でも、杓子山・鹿留山へ登る機会は得られないでいる。
今年は是非登って、落ち着かない心をスッキリさせたいと思う。

話が長くなったが、もう一つの山は宮崎の 大崩山 (オオクエヤマ) である。
この山は 2度程頂上を踏んでおり未踏という訳ではないのだが、1995年の 3月の早朝に麓まで行ってみると、 山は白く輝いており、そして登山道も祝子川の河原を渡った頃から完全に雪道に変わり、山の裏側では膝下 5センチ位の雪が積もっているという状況だったのである。
それでも何とか 下和久塚の岩峰の上に立つことができたものの、それ以上は雪で道も不明瞭であり、 またこのあとも山の裏側の道が続くため雪が膝上までに達することが予想されたので、頂上まで登るのを断念することにしたのである。
これが 2人以上で登っていたのであれば、間違いなく頂上まで進むことにしたのであろうが、前に人がいる訳はなく、 恐らくこんな日に後から登ってくる人もいないと思われ、万が一のことを考えたら引き返す方が無難だろうと判断してのことである。

それでもそれなりに結構面白い体験をさせてもらったのだが、ここで思い出されるのが 「単独行」 の加藤文太郎氏である。
冬の北アルプスや厳冬期の氷ノ山を、装備も不十分な時代にたった一人で登るなど、私には全く想像もつかない。
例え、家族のことやその他のしがらみがなかったとしても、それ程までにして登ろうという勇気は湧いてこない。大したものである。
この大崩山の頂上に登れなかったのも残念であるが、加えてこの大崩山が宮崎最後の山になった (この後、横浜への帰任が決まり、 残る日々は四国の 剣山登山に充てたのでこれが最後となった) というのが心残りであって、 再び宮崎の山に登る機会があれば是非とももう一度登ってみたいと思っている。

というわけで、2つ程登り切れなかった山があったのを思い出したので、ここに報告し、 前回の話を訂正させて頂きたいと思う。


●途中での登頂断念(with PHOTO四阿山2) 1998.02.09 記

先日書いた 開聞岳の夜間登山のように、危険だ、不安だと思っても、 戻ることはなかなかできないのであるが、私の短い山行経験の中で、一度だけ途中で登頂をあきらめて戻った山がある。
それは 1992年 5月に登った 四阿山で、鳥居峠から賽の河原、花童子宮跡を進むにつれて残雪が増え始め、 それでも特に歩きにくいことはなかったので高をくくっていたのであるが、ガスが晴れて尾根通しに真っ白な四阿山が見えた時には正直言ってビビッてしまったのだった。
とは言いながらも、2,040m地点にある四阿 (アズマヤ) までは順調で、この先も何とかなるだろうと狭い岩場の尾根道を登っていったのであるが、 風が強くまた風に雪も混じり始めて心細さは増すばかりであった。
岩場の尾根を進んで、その先の樹林帯 (2,144mピーク) に入るとそこからは完全に雪の世界で、 一旦樹林の中を急下降してそれからまた徐々に登り返して四阿山頂上直下の稜線に辿り着くようになっているのだが、 その樹林の中の下りは斜面に積もった雪が完全に凍りついており、一旦下ってしまうとアイゼン無しには戻ることができない氷製の蟻地獄のようになっていたのである。
無理をすればそこを下ることはできるし、また途中引き返すことになっても木々に掴まれば何とかよじ登って戻れるかもしれないとは思ったものの、 やはりどうしても下りる勇気が湧かず、かといって折角ここまで来たのに戻るのもシャクで、5分程その下降地点で逡巡してしまったが、 アイゼンを持たなかった私はやむを得ず引き返すことにしたのであった (ここをクリックして四阿山2をご覧下さい)。

先ほどの四阿 (アズマヤ) まで戻ったものの、高崎まで新幹線を使い、高崎から在来線で上田まで来て、 上田から鳥居峠までタクシーを使うという贅沢をしたこともあり、また今まで一度も途中で下山したことがなかったことから、 どうしてもこのまま帰るのがイヤでたまらず、この四阿 (アズマヤ) の中でも暫し考え込んでしまった。
結局、5月の上信国境の山を甘く見ており、軽アイゼンも持たずに来た自分を反省し、登ってきた道を戻ったのであるが、 その後鳥居峠でタクシーを待つ間に下山してきた登山者に話を聞き、同じく途中であきらめたことを聞いてホッとしたのを今でも覚えている。
結局、自分を納得させる何かが欲しくて、同じように途中で下山してきた登山者を確認して安心し、 納得したのであるが、このような日帰り登山でさえも途中で帰ることに大変な心の葛藤を生じたのであるから、 これが何ヶ月も前から準備した正月休みの北アルプス登山などであったら、少し位天候が悪くても撤退するなどということは頭に浮かばないであろう。
そして、危険と分かっていても登山をする人達の擁護をするつもりはないものの、用意周到に準備をして来たこと、 折角 麓まで来て山はもうそこにあること、そしてもしかしたらやっと取れた休暇であること、といった要素がからんで、 又の機会を待とうと考えて撤退するということは大変難しく、先に進もうとする気持ちも分かるような気がするのである。
勇気ある撤退とはよく言ったもので、撤退することは冷静な判断の元、客観的に状況を見極められることができなくてはダメで、 本当に立派な決断なのである。
それでも、その撤退が正しい判断だったのかをいつも自問自答せねばならず、ヘタをすれば臆病などと他人から揶揄されかねず、 本当に難しい。

私の場合は、ただ単に行くのが怖かっただけなのであるが、それでも自分だけ戻ってきてしまい、 他の人達は登ったのではないかということが気になってしようがなかったのであるから、 もっとテンションの高い人達は言わずもがなである。
しかし、単独登山を好む私にとっては、自分のことは全て自分で判断せねばならず、自ずと慎重にならざるを得ない。 それでも途中での撤退はイヤだから、どうしても気象条件、山の状態の良い時しか行かなくなるし、 四阿山の撤退からは山の状況に一層気をつけるようになったような気がする。
しかしそれでもまだまだ対応が甘く、1996年 6月に登った 武尊山の雪には大変ビックリさせられるなど、 まだまだ、下調べが足りないし、慎重さに欠けていると痛感させられることがある。
二度と途中での下山などないように、もっと上る前の研究、情報収集を強化したいと思っている。
PHOTO 四阿山2 を見るには ここをクリックして下さい。


●暗闇の中の登山 1998.02.05 記

暗闇の中の登山をしたことがあるだろうか。
明け方近く、あるいは日没後の登山は経験あったものの、全くの闇夜の中、山に踏み入るのは大変勇気がいるものである。
私は、宮崎への単身赴任時代、部の慰安旅行で指宿へ行ったことを利用して夜中の 3時半に宿を出、
開聞岳に登ったことがあるのだが、雨まじりの天気であったために月明かりもなく真っ暗で、 頼るのは頭に付けている懐中電灯だけという状況であった。
登山口から林の中に一歩足を踏み入れた瞬間、カラスであろうか、鳥達のギャーギャーという侵入者が来たことを知らせる警戒の叫びが林中に響き亘り、 ヘッドランプ目指して鳥達が襲いかかって来るのではないかという恐ろしさに、思わず頭からヘッドランプをはずして手に持ち替えてしまったことを覚えている。
この鳥達の叫び声は 3合目近くまで続き、招かれざる客であることが強く意識され、何度も登山を中止しようと思ったものである。

3合目を過ぎ、鳥達の叫び声も止んで一安心したのも束の間、今度はやや雨足が強くなり始め、 レインウェアを着て、片手にヘッドランプ、片手に傘をさす、といった出で立ちでの登山となった。
おまけに雷が鳴り始め、生きた心地がせず、加えて昨晩の宴会での酒が抜けていなかったため、精神的にも肉体的にも辛い状況での登りであった。
それでも、どうにか頂上までたどり着けたのは、3年程前に一度この山を登っていて、 登山道が山全体をグルッと巻いていく単純な螺旋式となっていることを知っていたからで、 これが全く未知の山に踏み入ったのであればこうはいかなかったであろう。
幸い、8合目を過ぎる頃から雨も上がり、頂上で待つこと暫し、6時頃には雲の中から昇る朝日を見ることができたのだが、 大変良い経験をさせてもらったと思っている。

昔、甲斐駒ヶ岳の七丈小屋にて朝出発しようとしていると、 麓の竹宇駒ヶ岳神社から夜を徹して登り続けてきたという夫婦連れが小屋の前を通りかかったが、 これも途中の刃渡りや鎖場を除けば、道がしっかり踏まれていて危険な箇所や迷うような場所が少ないこと、 そして何よりも二人で登ってきたからできたことだと思う。
暗闇を一人で手探りのようにして進む孤独感、不安感は例えようもなく大きく、今考えれば無謀なことであったと反省せざるをえないが、 山に取り付くまでは闇夜の山がこれ程怖いものだとは思いもしなかったのである。
それでも、一旦登り始めたら折角のチャンスだから撤退はもったいないという心が強く、 戻ることを良しとしなかったのであるが、大きな事故に繋がっていたらと思うとぞっとする。

暗闇の中の登山という貴重な経験をしたのだが、途中で戻りたいと思っても戻らずに進んでしまう心理についても面白いもので、 この点については明日以降述べてみたい。


●何たる体たらく 1998.02.01 記

昨日で1月が終わってしまった。
そして 1月の登山実績は ゼロであった。何たる体たらくであろう。
1月は忙しくて 2回も休日出勤をせねばならなかったとか、2回も木曜日に大雪が降ってしまい土日の山のコンディションは私にとってはハード過ぎたとか、 親戚が集まる新年会があったとか、いろいろ理由はあるのだが、とにかく元旦に 「今年は(登山に)頑張ろう」 と誓ったことが守れなかった自分が情けない。
特に、31日の土曜日は晴天が予想されていたので、雪の丹沢に行こうと前日に写真フィルム、軽食を買うなどして用意をし、 当日朝 5時に起床してはみたものの、結局 一向に山に向かう気になれず、再び布団にもぐり込んでしまったという体たらくであった。
その前 1週間、仕事が忙しく午前 1時以降の就寝という状態が続いていたので身体に疲れがあったのだが、 チョット前ならそれでも山に飛び出していったに違いない。
自分が年をとったとは思いたくないのだが、どうも起動するまでの力 (パワー) が落ちてきているのが気にかかる。
また、何回も登った丹沢の大倉尾根を登るのだということも気力を萎えさせた原因で、キツイ登りだということとともに、 もう飽き飽きしたという思いも心にあったのである。

よく同じ山に何回も登っている方がおられるが、私はどちらかというと浮気型というか新鮮さを求める方で、 同じ道を何回も辿るというのは性に合わないのである。
この時期それでも何回も登っている丹沢を選ぶのは、雪が多く積もっていても道を良く知っているため安心であるからで、 ここら辺が安全を第一とした私の単独登山の限界でもある (とは言っても、パーティを組んでいても事故に遭うときは事故に遭うのだが・・・)。
しかし、こんなことではいけない。
一月 (ひとつき) に最低 1回の山行というノルマをこなすため、2月には 2回以上山に向かうこととし、 そして夏山シーズンには新たな百名山に登ることを中心に山行数を稼ぐようにしなければならない。

朝、通勤の途中で丹沢を見ては、「今日は良い天気だから山に登ったら楽しいだろうな」 と考えたりするのだが、 イザ土日になると 「せっかくの休みだから休養したい」 という気持ちが沸いてきたりもして、 ひたすら土日に山に向かいたいと考えていた頃とは随分今の自分は気持ちが変わってきている。
この起動する (山に向かおうとする) 力の衰えは気にかかるところだが、救いは一旦山に踏み入ってしまえば、 それはもう楽しくてたまらないという気分にさせられるということで、山がキライになったわけではないらしい。
これから頑張るためには、自分の性格も考えて、今まで登っていない新しい山をドンドンこなすようにしていくことであろうと思っている。


●雪 化 粧 1998.01.19 記

ここ 1ヶ月の間に関東地方に 2度程大雪が降った。
最初の大雪の時には、私の乗っていたJR東海道線が途中の駅でストップしてしまい、 全く復旧の見込みがたたないということなので、腹をくくって 「飯でも食って時間をつぶすか」 と駅の外に出、 タクシーの行列が 200m程できているのを横目に見ながらメシ屋を探すことにした。
駅の周辺は飲み屋が多いので、少し離れた所でメシ屋を探していると、横の路地から空のタクシーが飛び出てきたので、 これ幸いと手を挙げると乗せてくれるという。
なんと自分は幸運なのだろうと喜び勇んでタクシーに乗ったが、この日は大雪による渋滞で、 普段なら 40分位で着く距離なのにタクシーに何と 4時間も乗っているハメになってしまった。
料金は、それでも 1万7千円位で済んだが (雪の日に合わせた特別料金体系だったらしい)、 イヤハヤ大変な目にあってしまった (タクシーに乗ったのが午後8時過ぎで、家に着いたのは午前1時近かった)

普段雪に慣れていない首都圏は、全く機能をマヒさせ、坂道を登れず乗り捨てられたノーマルタイヤの車が何台も見られ、 平らな道路上でも、路面が滑るためにノロノロ運転となって渋滞があちこちで起こったのであった。
しかし、これが山にとってはどうかというと、私の通勤途中に右手にいつも見える
丹沢山塊が、 雪化粧をすっかり施され、翌日以降驚くほどの変わり様を見せてくれている。
富士山を隠す丹沢大山を一番左にして、塔ノ岳、丹沢山、蛭ヶ岳と続く山々が、 朝日を浴びてピンク色に輝く様子は、1,600m程しかない山とは思えない、2,000m級の山の趣を見せてくれている。
更には、小田急線本厚木駅周辺で見る大山は、普段なら崩壊した山肌を醜く見せている部分があるのだが、 それらはすっかり雪で覆われ、15日の大雪の翌日見た姿は、山頂付近に雲を集めて、 アルプスの山々にも匹敵する威厳を見せてくれていた。
いつも思うのだが、雪化粧とは本当に良く言ったもので、化粧にによって山の魅力を何倍にも増加させるのであり、 女性が年齢による肌の衰えを化粧にて隠すような (失礼!)、不思議な魔力・威力を持っている。

こうなると俄然 丹沢行きが楽しみになるのであるが、この土日は天候があまりよくなかったのと、 子供 2人が風邪で寝込んでおり、一人遊びに出かけにいけるような雰囲気ではなかったので、次回以降へ伸ばすことにした。
もっとも、雪山が好きな人の中には、まだ誰も歩いていない雪の山道を登り、自分のトレースをつけるのが楽しみという人もあろうが、 塔ノ岳および表尾根縦走ならともかく、丹沢、蛭ヶ岳、姫次、さらに焼山 (あるいは青根) まではとってもではないが、 私には無理であろう。
もう少し雪が固まって、軽アイゼンがよく雪をとらえられるようになってからの方が、私にはちょうどよいのかもしれない。

一昨年も 2月の末に、主脈縦走を行ったが、丹沢山以降は足跡も雪と風で消えかかっており、 一人不動ノ峰付近を歩くのは大変楽しかった。
今年も天候のよい日を選んで、是非蛭ヶ岳、姫次、青根へと縦走したいものである。

とは言え、これだけ雪が降ると、この冬に私の登る山の選択肢が非常に狭められてくる。
また、一昨年のように大雪で、6月を過ぎても尾瀬などが雪の中だと、私にとってはチョイト面倒である。


●今年は頑張ろう 1998.01.05 記

山の関係で昨年を振り返ると、このホームページを 8月に開設したことが一番大きな出来事であった。
今まで登ってきた山の記録や写真を整理するという、本当に個人の趣味から一歩も出ていないものを、 皆さんに公開する (あるいはできる) などと言うことは昔なら考えられず、インターネットというものの面白さ、 自由性に大いに驚かされたものである。
しかし、肝心の登山そのものについては、百名山はわずか
大台ヶ原仙丈ヶ岳浅間山の 3つしか新規に登っておらず、 その他の山への山行も数えるほどしかなく、誠に不本意の年であったといえる。
夏の天候が云々の言い訳はあるのだが、考えてみれば年初からあまり活発に動こうとしなかった自分が思い起こされる。
九州に 3年間単身赴任していて高い山に飢えていた反動のためか、横浜に帰ってきてから一気に山に登りまくった 1995年、96年を思うと、 昨年はその情熱が失せたのか、自分でも情けなくなる年であった。

今年は 2度とこのようなことのないように、ひと月に 1回以上山に行くことを自分のノルマとし、 もっと山に対する情熱を燃やすようにしようと思う。
また、道半ばの 「日本百名山踏破」 についても、昨年は夜行で行ったりすることに億劫さを感じることもあったので、 今年は多少無理してでも頑張るようにしようと思う。
山は一度行かなくなると、再びテンションを高めるのが難しくなるので、やはり低い山でも登り続けることが大切である。
今年は頑張りたい。


●山 の 本 1997.11.17 記

私は結構 本が好きであるものの、読書傾向はもっぱら推理小説、冒険小説に偏っていて、 山に関する本の紹介などおこがましいのであるが、少ない読書経験から恥ずかしながら何冊か紹介してみたい。

(役立つ本 1)
山に登り、頂上に立てば、どうしても周囲の山々の名前を確認したくなるのが山好きの性分であろうが、 登山ビギナーやその山域が初めての者にとっては、なかなか山の名前を確認することは難しい。
そこで、写真をパノラマ風に撮っておいて後で確認したりするのであるが、 その確認に最適となる本が 藤本一美氏・田代 博氏共著展望の山旅」、 「続展望の山旅」(実業之日本社刊) である。
これは関東を中心とした山の頂上から見た展望を挿し絵や写真で紹介し、見える山々の名を示してくれているものであるが、 私は写真の整理などの時にどれほど助けられたことだろうか。
写真の確認のみならず、少々重いが山に持っていけば、頂上での楽しさが増すこと請け合いの本である。

(役立つ本 2)
登った山の数が増えるにつれて、登った山・これから登る山をどう分類するかという興味もでてこよう。
日本百名山もひとつの分類の仕方であり、一等三角点百名山などという分類の仕方もある。
こういうことに興味のある方には、石井光造氏の 「山DAS 山歩きデータバンク」(白山書房刊) をお薦めしたい。
よくもまあこのようにまとめられたものだと感心すること請け合いであり、ちょっとした山の辞典としていつもソバに置いておきたい本である。
高さ順による分類、干支の名が付いた山、西暦の年号と同じ高さの山、男と女の山、花の百名山、 一等三角点の山といった多くの分類情報が満載で、読んで楽しい本である (少々データが間違っているところもあります)。
百名山だけが山の目標ではないことが本当に良く分かります。

(山のエッセイ・紀行文)
山に関するエッセイは多く出ている。
それぞれ名を為した登山家が書いただけあって、なかなか読ませるものが多い。
私は文庫本中心に購入するので、読んだ本の範囲も限られてくるが、下記などがお薦めと思う。

芳野満彦著      「新編 山靴の音」  (中公文庫)
長谷川恒男著     「岸壁よおはよう」  (中公文庫)
G.レビュファ著   「星と嵐」  (新潮社文庫)
深田久弥著      「日本百名山」  (新潮社文庫)
H.シュトルテ著   「丹沢夜話」、「続丹沢夜話」、「続々丹沢夜話」 (有隣堂)
沢野ひとし著     「休息の山」  (角川文庫)
近藤 等著      「アルプスの空の下で」  (中公文庫)
残念ながら串田孫一氏の本はまだ読んでいないが、「山のパンセ」 など、 何とか手に入れて読みたいと思っている。

(小 説)
小説はやはり新田次郎氏しか思い浮かばない。
上記に書いた芳野満彦氏の半生を書いた 「栄光の岸壁」、 今井通子氏をモデルとした 「銀嶺の人」、 そして加藤文太郎氏を描いた 「孤高の人」 の三部作は是非とも読むべき本としてお薦めしたい。
また、
剱岳に登るのであれば 「点の記」 を、 槍ヶ岳笠ヶ岳に登るのなら 「槍ヶ岳開山」を、白馬岳に登るなら 「強力伝」 を読まれると、その山に対する親しみも倍加するというものである。

(ガイドブック)
ガイドブックの類は、沢山あってどれをお薦めすべきか迷うところだが、近頃山へのアプローチに車を使うことが多く、 そのため 森田秀巳編の 「マイカー登山・ベスト周遊コース」(山と渓谷社刊) をかなり参考にしている。
この本は 6年も前に出されたのであるが (無論改訂は行われている)、つい最近本屋で見つけ、 早速 雲取山登山に活用させてもらった。
また、「別冊 東京周辺の山」(山と渓谷社刊) は私を 丹沢以外の山へと目を向けさせてくれた本で、ボロボロになるまで使ったものである。
山と渓谷社からは アルペンガイドが山域別に出されているが、 この本はそのハイライトを集めたお買い得の本だと思う。
ただし、山に向かうときはこの本だけに頼らず、もっと詳しいガイドブックや地図を持っていくべきであろう。

以上、拙 (つたな) い読書経験から紹介したが、他によい本があったら是非とも教えて戴きたい。


●私 の 登 山 靴 1997.11.14 記

私の登山靴について少し紹介してみたい。
私の持っている登山靴は、1つを除いて皆、軽登山靴で、どちらかというと安く手に入れたものが多いのだが、 かといって機能が落ちるという訳ではなく、自分としてはかなり気に入っている。
登山を始めたばかりの頃買ったのは、くるぶしを保護していない ASICSの短靴で、 αジェルがかかとに入っていて衝撃を抑えてくれるというものであったが、少し登山をかじり始めると途端にくるぶしまである登山靴が欲しくなり、 短い命でそのままお蔵入りしてしまったのだった。
ただ、この靴のデビューは
丹沢主脈縦走で、雨の中、大倉から焼山登山口までの長丁場を正味 7時間弱で歩き通してくれ、 登山に対する体力的自信をもたらしてくれるという重要な役割を果たしてくれたものなのである。
下ろしたてだったため、靴擦れをつくって血まみれになりながら、痛さをこらえての山歩きだったのが大変懐かしい。

次に買ったのが ZAMBERLANヌーボフジヤマであった。
これは、池袋の 秀山荘のバーゲンで買った新古品であったが、長く重宝して使い、 ビブラム底の貼り替えも 2回程行った後、今は箱に入って眠っている。
この靴の人生 ? のハイライトは、何といっても初めての北アルプス縦走で、常念岳から 槍ヶ岳、そして 笠ヶ岳までを歩いたことであったが、 雨の中の 甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根の登りも印象が深い。
よく考えたら、この他 八ヶ岳木曽駒ヶ岳空木岳谷川岳富士山黒岳から 薬師岳までの縦走など、美味しいところをかなりこの靴がさらってしまっている感がある。

このヌーボフジヤマの後に買ったのが、同じ ZAMBERLAN イサルコで、 これもかなり活躍してくれていて今もなお現役なのだが、その後に買った MEINDLラーサの軽量さには勝てず、 今は積雪期の丹沢など、雪の低山歩きにのみ出動している。
この靴のデビューは、5月の 四阿山であったが、残雪のため頂上に到達せずに終わっており、 最初から少しついていない感のある登山靴であった。
イサルコのハイライトは、やはり 北岳から 塩見岳までの縦走であろうか、また、雨の中の 宮之浦岳もこの靴であった。
そう言えば、残雪の 剣山はこの イサルコに軽アイゼンをつけて登ったのであった。

そして今は ラーサなのだが、さすがに購入してから 4年程経ち、 ソールがかなり摩耗してきたことが気にかかってきているのだが、 ボディの部分はまだ十分に使えるので買い換えるのが惜しいというのが私の気持である。
こういうボディと一体となった靴は、ソールの貼り替えができないと思っていたからであるが、 先般新宿の 山幸へ行ったら、ラーサは廃モデルとなったものの、靴底の張り替えは可能だといわれたので、 近々お願いしようと思っている。また生き延びてくれると思うと嬉しい限りである。

この他、もう 2足、現役ながら休眠中の靴がある。
1足は、プラスチックブーツで DOLOMITE製なのであるが、 型落ちで大きく値引きしていたため飛びついて購入したまでは良かったのだが、あまりの重さに使用したのは 5回位しかない。
しかし、赤城山霧ヶ峰大菩薩嶺などの積雪期、残雪期に大いにその能力を発揮してくれた。
もう 1つは、HI−TECニューPCTで、確か 1万円でおつりが来たと思う。
この靴は、宮崎近辺の低山、例えば 双石山などを登るのには、 イサルコラーサでは少し大げさと思い、単身赴任先の宮崎で買ったものである。
とはいえ、この靴も百名山を登るのに貢献してくれており、草津白根山と 2度目の 開聞岳登山の時に参加してくれている。

こうした登山靴は手入れが大切なのだが、買った当初は一所懸命グリースなどで磨くものの、 この頃は放ったらかしであって、少々反省している。
それぞれの山の頂で靴たちとともに喜びを分かち合えるように、そして手入れを怠って山で裏切られないように、 これからは大事に扱っていこうと思う次第である。


●山 を 撮 る 1997.11.7 記

初めて登る山については、その山の全景を写真に撮りたくなるのは当然と思うが、 富士山開聞岳由布岳のような独立峰ならいざ知らず、登っていきながら周囲の多くの山々の中から目的の山を見つけ、 写真に収めるのはなかなか難しい。
特に、ガイドブックもろくにないような状態で登る場合は、それらしい山に目星をつけて写真を撮りながら登ることになるが、 後から写真を見て調べてみると全然違った山であったりすることも少なくなく、逆に後からあの時見えた山が目的の山だったのかと、 撮らなかったことを後悔することも多い。

ガイドブックに掲載された写真と全く同じ山の姿が目の前に現れた時は問題ないのであるが、 山は少し角度を変えると全く違った様相を見せることが多く、従って勘違いしたり見過ごしてしまうことも多いのである。
槍ヶ岳鳳凰山の 地蔵岳のように大きな特徴を持った山は見間違うことはないが、そういう山もそれ程多い訳ではなく、 特に同じ高さの山々に囲まれた 1,500m以下の山となればお手上げである。
恥ずかしい話だが、数多く登っている 丹沢山塊でさえも、 大倉尾根途中から塔ノ岳をすぐに見つけることは未だできないでいるし、 蛭ヶ岳頂上から谷を隔てて見える山々を見て、塔ノ岳を初めとする山々の名を自信を持って言いきることはできないでいる (もちろん方角などから推定してはいるが、ガイドブックなどの写真を見て確定しない限り自信が持てないでいる・・・でもそういう写真は載っていないことが多い)。
従って、絶対的に安全なのは頂上近くになってから目指す山の写真を撮ることであるが、 その場合目当ての山は大体三角錐かおむすび型をしていて皆同じに見えるため、つまらない写真しか撮れないのである。
先ほどまで頂上に立っていた山でさえも、下山途中に 2つか 3つ程ピークを越えたりすると、 もうどの山だったか分からなくなってしまうことも多く、もしかしたら私は方向音痴ならぬ 山音痴ではないかと思うことが多々ある。
つい最近も、浅間山に登った後小諸への道を辿る途中、振り返って何枚か 浅間山の写真を撮ったが、 実はそれは牙山 (キッバヤマ) とその周辺の山々であったということがあった (山容や樹木の生え具合を見れば分かりそうなものだが、情けない)。

いつか、宮崎県の 尾鈴山からの下山の途中に出会った林業関係の人に、 尾鈴山はどの山かと聞いたところ、「今登ってきたばかりなんだろう」と笑われたことがあったが、 尾鈴山から続く 2つ程の山を越えたため、分からなくなってしまっていたわけである。
展望の山旅」 の著者である、藤本 一美さんや 田代 博さんなどのように、 山頂から見える山々をしっかり同定するとともに、山々の間にチラリとしか見えない遠くの山を見て、あれは ○○山だと断定できる人達がおられるが、 私にとっては畏敬の念を抱かざるを得ないのである。


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