◎村松聡著『つなわたりの倫理学』(角川新書)
角川新書というのは初めて読む。もちろん書店で見て存在することは知っていたけど、タイトルからして買いたいと思う本がなかったのよね。そんでもって、ようやくタイトルを見て買う気になったというわけ。ただ350頁以上ある本だし、いつものように章ごとに説明していくと、これまたいつものように最長不倒K点越えになってしまうので、この本に関しては焦点を絞って金メダルを取り損なった失敗ジャンプ並み(誰とは言わん)の飛距離に留めることにした。その焦点とは「倫理」とは何かという点。巷でよく問題になることに「道徳」と「倫理」の違いがある。たいていの人は「道徳」と「倫理」を互換可能な同義語として使っているのだろうと思うけど、必ずしも同義ではないと考えたほうがよい。ここではまず、著者というより私め個人のとらえ方(というか倫理関係の一般書でよく見られる区分)をまず説明しておきましょう。道徳は普遍的な原理(道徳原理、道徳律)に関するものであるのに対し、倫理は普遍的で原理的な道徳原理を個々の状況にいかに適用するかの問題だと個人的には考えている。
たとえば「人を殺してはあかん」というのは道徳原理に相当する。しかし状況によっては、この一見当たり前田のクラッカーのように思われる道徳原理でさえ、適用がきわめて困難になる場合がある。たとえばこの原理を絶対的なものとした場合、正当防衛で相手を殺してしまった場合、それは道徳に悖る行為と見なされざるを得なくなる。あるいは、「子どもの頃のヒトラーを殺せたとしたら、あなたは殺しますか?」という思考実験があるけど、先の道徳原理をそのまま適用すれば、子どもの頃のヒトラーを殺すことは道徳に悖る行為と考えざるを得ない。おそらくこの問いに「ノー」と答える人も一定数いるとは思うが、たいていの人は「イエス」と答えると思う。ちなみにこの問い自体はあり得ない思考実験にすぎないとしても、逆のケースは実際にあった。詳細は多少違うかもだけど、ヒトラーは子どもの頃におぼれて死にかけたことがある。でも、たまたま近くを通りかかった牧師が、その子どもが将来何を仕出かすかを知らずに(それこそ当たり前田のクラッカーだが)助けたのですね。その際、この牧師が参照できた状況は「どこかの知らないガキンチョがおぼれている」だけであって、だから当然そのまま見殺しにしてガキンチョヒトラーを殺すことは、「人を殺してはあかん」という道徳原理に反することになり、この牧師の立場から言えば、この道徳原理をそのまま適用しても、それはきわめて妥当だったと言える。しかし現代に生きるわれわれには、同じことは当てはまらない。なぜなら、われわれはヒトラーがその後何を仕出かすかをよく知っているから。つまり判断の対象となる状況が、この牧師と現代のわれわれではまったく異なるってこと。この牧師が参照できた状況は「どこかの知らないガキンチョがおぼれている」という単純なものにすぎなかったのに対し、われわれは「そのおぼれているガキンチョが将来無数の人間を殺すことになる」という状況に参照でき、はるかに複雑な条件を考慮しなければならない立場に置かれている。だからこの牧師のように道徳原理に単純に参照しただけでは答えを出せず、普遍的な道徳律に参照しつつも、複雑な状況を加味したうえで普遍的であることからくる道徳原理の不備を補い、しかるのちに一つの実践的な答えを出す「倫理」が必要になる。
実はこれは「道徳」と「倫理」の関係のみならず、神学で言う「神学的原理」と「決議論(casuistry)」の関係、あるいは法学でいう「法」と「衡平(equity)」の関係にも当てはまる。そして個人的には、それは「理想」と「政治」の関係にも当てはまると考えているけど、それについては先日取り上げた『民主主義を疑ってみる』を参照されたい。なお遡及法の問題にも似たようなところがあるように思われる。遡及法に関する専門的な見方についてはと〜しろ〜の私めにはよくわからんが、ある特定の時代になってから初めて得ることが可能になった知識や経験に基づいて作られた法を、そのような知識も経験もなかったそれ以前の時代に生きていた人々の行為(あるいは現代に生きている人々の過去の行為)に適用することが不適切であるのは、まさに当人の視界にはまったく入っていなかった状況をもとに個人あるいは集団の行為を判断することになるからだと言える。
さて『つながりの倫理学』を読むと、「倫理」に関してそのあたりのことがよくわかる記述があるので、ここではそれを取り上げることにする。たとえば次のようにある。「もし私たちが徳から行為を導き出す際に求めている結果が、一般化できる一義的な答えであるとすれば、フットやハーストハウスばかりでなく、多くの倫理的な問いに答えは期待できない。どのような行為が正しいのか、どのような倫理的アプローチをとるにせよ、一義的に導出できる場面は多くない(124頁)」。フット、ハーストハウスは現代の倫理学者(どちらも女性)のことで、ハーストハウスという人については私めには初耳だけど、フットはフィリッパ・フットのことで例のトロッコ問題を最初に考案した人(アングロサクソンの学者連中が大好きなこの思考実験を考案したのはサンデルではない)。あるいは次のようにある。「[科学の]厳密さは、現実を構成する様々な変数や条件を固定して、つまり、現実を抽象化してえられる。代償は、全体としての現実である。実践では、常に全体としての現実が立ちはだかる。(…)倫理の問いでは、徳倫理の徳であれ、義務論の原則であれ、常に複雑で様々な要素、変数が交錯する現実への応用になるために、原則と応用の厳密な連関を期待はできない(126〜7頁)」。もう一丁。「倫理の問題を巡っては、原則に{囚/とら}われるあまり、しばしば適切な応用、適切な状況判断、均衡のとれた判断の問題をなおざりにしてしまう。「命の神聖性」「当事者の自己決定」などの原則が前面に立つと、その応用の難しさが忘れられがちなのだ。¶徳倫理は、アリストテレス以来、原則の応用が倫理の核心の問いであることをよく理解していた。アリストテレスは、勇気や節制など様々な徳を原則として提示しながら、同時にその徳がどのように実際に発揮されるのか、決してそれぞれの徳理解の一般的性質からのみ考えてはいない(128頁)(下線部は私めによる)」。
要するに倫理は、最初から決まっている普遍的な原理を現実に適用することを意味するのではなく、まさに「原則をいかに応用して」現実に適用するかの問題なのですね。科学とは方法論がまったく異なるということ。ちなみに「道徳」については、この新書本にはほとんど言及がなかったように覚えている。とはいえ、カントの普遍主義的な義務論に言及して次のように書かれている。「カントはあくまで、行為の結果から独立に、どこでも、誰にでも、いつでも、妥当する普遍性を倫理に求めている。個々の事情や結果の考慮からもたらされる言い回しを倫理的行為として[カントが]認めるとは考えにくい(198頁)」。この文章には「倫理」とあるんだけど、むしろここは「道徳」としたほうが、見通しがよくなる気がす。
この本に関しては、これでおしまいにして総括に参りましょう。タイトルに「倫理学」とあるだけに、何やら一般読者が「え?」と思うような、直観にまるで訴えないことが書かれているように思えるかもだけど、決してそんなことはない。たとえば肉食に関しても、シンガーらのような厳格な立場を取らず、テンプル・グランディンのより現実的な立場を称賛している。次のようにある。「グランディンは、動物の権利論者のように食肉工場を批判し、時に肉食を敵視する過激な主張を展開しない。彼女は幾多の倫理思想家よりずっと現実的である。シンガーにしたがって養鶏場をやめて自然の中で鶏を飼っていたら、卵は一個数百円になってしまうだろう。一ダース一〇〇〇円を超える卵を朝食で食べるか、あるいはまったくオムレツや卵焼きは食べないか、この選択肢は非現実的で、学問や思想の天国で{霞/かすみ}でも食べて生きている住人の発想だ(311〜2頁)」。そう言えばわが訳書『魚は痛みを感じるか?』のヴィクトリア・ブレイスウェイトさんも、自分も魚を食べるが、魚を解体する過程を改善すべきだと主張していた。この点は、肉食は認めつつも畜産業における家畜の処理方法の改善を訴えてきたテンプル・グランディンと同じだと言える。このように新書本の著者は原理主義的な倫理思想に依拠してはいないので(ビーガンを「ほとんど宗教的原理主義」だとさえ言っているくらいだしね)、一般読者の直観にも訴える部分が多いと思う。倫理においても直観は軽視すべきではないというのが私めの考えだけど、それについてはまたの機会に取り上げましょう。
※2024年3月13日