◎山口尚著『人が人を罰するということ』(ちくま新書)
本年度最後のレビューに参りましょう。本文を読み終わってから「おわりに」を読んで気づいたんだけど、この新書本も、かつて青土社におられた頃、わが訳書カンデル本やメルシエ本の編集を担当して頂いた、若手編集者のホープ(と言っておけば何かいいことがあるかも!)加藤氏が編集を担当されていた。さてこの本に関しては、いつもとは違って最初に全体の流れだけを紹介して、そのあとでこの新書本の一つのテーマとして扱われている〈行為〉〈責任〉〈主体〉〈選択〉〈自由〉に対する最近の神経科学者や社会心理学者の否定的な議論に関する私めの見解を述べたいと考えている。だからいつものように著者や出版社からクレームが来るのではないかと怖れなければならないほど、この新書本から引用することもしない(なので加藤氏にあとで怒られることもないはず)。
では最初にこの本の流れを紹介しておきましょう。第T部を構成する「第一章 刑罰は何のために?――〈応報〉と〈抑止〉」「第二章 身体刑の意味は何か?――〈追放〉の機能」「第三章 刑罰の意味の多元主義――〈祝祭〉・〈見せもの〉・〈供儀〉・〈訓練〉」では、刑罰の意味にはさまざまなものがあることを確認する。副題の〈〉内が、刑罰のさまざまな意味の一つひとつを示す。
第U部を構成する「第四章 応報のロジック」「第五章 自由否定論」「第六章 責任虚構論」では第T部で取り上げられた刑罰の意味のうち、〈応報〉に焦点を絞り、〈応報〉が成立するためには「自由」や「責任」の概念が有効でなければならないが、神経科学や社会心理学の分野からその「自由」や「責任」が存在し得ないことを論証する議論が近年になってなされるようになったことが取り上げられる。ちなみに神経科学に関しては有名なベンジャミン・リベットの実験、社会心理学に関してはスタンレー・ミルグラムのこれまた非常に有名な服従実験と、私めのよく知らない小坂井敏晶著『責任という虚構』が取り上げられているけど、私めなら最近のもっとも顕著な、というかド派手な例として、ロバート・サポルスキー著『Determined: A Science of Life without Free Will』(Penguin, 2023)をあげたい。ちなみに『Determined』は、最近NHK出版からようやく邦訳が刊行された『善と悪の生物学』(こちらの原題は『Behave: The Biology of Humans at Our Best and Worst』)とは別の、今年(二〇二三年)刊行の最新刊であることに注意されたい。『Determined』を読んだときに感じたうさん臭さについては『まちがえる脳』に書いたので、そちらを参照されたい(これを書いたときはまだ某社と検討中だったのでそこでは「ごつい本」と表記してごまかしているけど)。
第V部を構成する「第七章 それでも人間は自由な選択主体である」「第八章 責任は虚構ではない――自由と責任の哲学」「第九章 自由・責任・罰についての指摘」では、第U部で取り上げたような「自由」や「責任」の自由否定論や責任虚構論の批判が、おもにピーター・ストローソンの論文をもとに繰り広げられている。
さてこのような新書本の議論には大いに賛成するけど、最初に一つだけ気になった点をあげておきたい。それは次のようなもの。第U部で取り上げられている自由否定論や責任虚構論は、多様な刑罰の意味の〈応報〉を否定するものでしかない。したがって自由否定論者や責任虚構論者の言い分が仮に正しかったとしても、それは〈応報〉以外の刑罰の意味を否定することにはならない。その点は著者自身、はっきりと述べている。それにもかかわらず、後半になるとその点があいまいにされているような気がした。たとえば第七章に次のようにある。「もし自由な選択が無ければ、誰も自分の行為に責任を負えないので、罰することや責めることは無意味になる。ここから根本的な問いが生じる。ひょっとすると私たちのやっていることは無意味ではないのか。誰かを責めたり罰したりするとき、私たちはふつうそれを「意味のあること」と考えるが、それはまったく勘違いなのではないか(178頁)」。まず誤解が生じるとまずいのでclarificationをしておくと、これは自由否定論者や責任虚構論者の見方を述べたものであって著者の見解ではない。とはいえ「自由な選択が無ければ、誰も自分の行為に責任を負えないので、罰することや責めることは無意味になる」とあるけど、これはあくまでも「自由な選択が無ければ、誰も自分の行為に責任を負えないので、[〈応報〉という意味に限って言えば、]罰することや責めることは無意味になる」という意味でなければならない。もちろん似たような箇所はたくさんあるので、そのたびにいちいち「〈応報〉という意味に限って言えば」などとつけ加えると、えらくうざくなるので省略したのだろうけど、どうしても誘導尋問にかかったような印象が拭えなかった。アマページにある「本書の第T部は読み飛ばしてよい。第U部以下の本題と関係しないからである」というコメントも、似たような理由から出てきたのだろうと思う(個人的には第T部も重要だと思っているけど、第T部で主張されていることの一部だけが第U部、第V部の対象になっていることは確かなので、順番をもう少し工夫したほうがよかったのでは?という気もする)。
ということでここからは〈自由〉〈選択〉〈責任〉〈主体〉などの概念を否定する自由否定論や責任虚構論対する私めの見方を開帳することにしたい(ただし前述した『まちがえる脳』で書いたことは除く)。したがってここから先の内容のほとんどは新書本にあるわけではない。まず、その手の否定論を読むたびに、自由否定論者や責任虚構論者は、依然としてデカルト的心身二元論の罠にかかっているような印象を受けてしまうということを指摘しておきたい。もう少し具体的に言うと、心と身体をまず実体的に区別したうえで、心的レベルに精神性、理性、意識、非必然性、〈自由〉、〈責任〉などを、また身体的レベルに物理性、物質性、身体性、感情、無意識、必然性、〈自由〉や〈責任〉の欠如を割り当てているからその種の否定論が出て来るのではないかと思えてしまう。つまり彼らは、身体的レベルから心的レベルが生じることが科学的に証明された現代では、デカルト流の心身二元論は否定され、身体的レベルによって心的レベルが支配されていると、もしくは心的レベルはせいぜい身体的レベルの随伴現象にすぎないと想定されるので〈自由〉や〈責任〉は存在し得ないと考えているように思える。ところがそもそもデカルト流の心身二元論が誤りであるのなら、「心的レベル=〈自由〉〈責任〉」、「身体的レベル=〈自由〉や〈責任〉の欠如」という分類そのものも成り立たないことになるはずであるように思われるにもかかわらず、自由否定論者や責任虚構論者は、そこは問題にしないらしい。だが、身体的レベルにおいて、あるいは心的レベルと身体的レベルが統合されたア・ラ・ダマシオな領域においてほんとうに〈自由〉や〈責任〉は存在し得ないだろうか?
ちなみに最近の認知科学においては、無意識の領域でも認知は作用するという見方が強まっている。たとえば『権力について』で紹介したように、神経科学者のジョセフ・ルドゥーは、カーネマン流のシステム1(無意識的、直観的)+システム2(意識的、理性的)という二項区分では不十分であるとして、システム1(非認知的で無意識的)+システム2(認知的で無意識的)+システム3(認知的で意識的)という三項区分を提唱している。つまりルドゥーの考えによれば、システム2は認知領域に属しながら意識的な作用ではなく、認知には無意識的なもの(システム2)もあれば、意識的なもの(システム3)もあることになる。また認知科学者のヒューゴ・メルシエ&ダン・スペルベルに至っては、二人の共著『The Enigma of Reason』で合理的思考(reasoning)すら直観的、すなわち無意識的な推論の一形態としてとらえている。もちろん無意識的な領域でも認知機能が働いているからといって、一足飛びに身体的レベルでも〈自由〉や〈責任〉が成立しうるという結論にはなり得ない。でも神経科学や認知科学ではそのような知見が得られるようになりつつあるにもかかわらず、依然としてデカルト流の心身二元論を引き摺る議論にしがみついているのは問題だとは言えるでしょうね。
また新書本の著者は「一般に〈自由〉や〈選択〉は行為主体にしか適用されない。それゆえ雷といういわば無主体的な自然現象については《自由かどうか》や《選択があるか》はそもそも問題にならない。この意味においても「ひとが何かをすること」と「ただ生じること」は互いに異なるタイプのものだと言える(186頁)」と述べ「行為主体性」を強調している。それに関連して言えば、認知科学者のマイケル・トマセロは、わが訳書『行為主体性の進化』で、その種の「行為主体性」がいかに進化してきたかを論じている。それによれば「行為主体性」は、人間はおろかすでにトカゲのような太古の脊椎動物にも「目標指向的行為主体性」という、より原初的な形態で備わっていた。つまり〈主体〉という点で言えば、そもそもそれを人間に限定することすら、言い換えると主体性を人間が備えているもののような意識の領域に閉じ込めることでさえ人間中心主義的な誤りであり、意識的か無意識的かを問わず行為主体性は作用していることがわかる。
それから個人的には、自由否定論者は、別の文脈で私めが盛んに主張している「粒度越境の誤り」に陥っていると思う。つまり、身体的レベルと、人間の経験領域たる心的レベルとではそもそも粒度が異なるのに、前者で起こる事象を後者で起こる事象に無理やり適用しようとしているのではないかってこと。一つ簡単な例をあげましょう。水は基本的に、〇度以下では固体、〇〜一〇〇度の範囲では液体、一〇〇度以上では気体という三つの形態を取る。それらは分子という物理的な粒度においては、基本的に速度や密度?の違いという物理的な差異に還元できる。しかし人間の経験領域においては、それら三つの形態は意味が異なる。水が気体になった水蒸気は蒸気機関車を動かすことができるのに対し、水や氷では動かすことができない。水が固体になった氷は、私めが毎朝通っているガストで、メロンコークを冷やすのに使えるのに対し、水、ましてや水蒸気ではメロンコークは冷やせない。つまり物理的、物質的、身体的な意味領域と、人間の経験が生じる心的、社会的な意味領域は明らかに粒度が異なるのであり、前者によって後者を網羅的に説明することは不可能だと言える。そのような説明では、複雑系科学的に言えば「創発」が、ケインズさん流に言えば「合成の誤謬」(『ケインズ』を参照)がまったく考慮されていないと言えるのかも。この観点はまさに、ストローソンの「責任と応報も人間の生の一般的な枠組みに属す(199頁)」という見立てとも一致すると思う。私めなら「枠組み」は「粒度」と言い換えるけど、要するに「枠組み」や「粒度」という言葉で言いたいのは、「人間の経験」がかかっている心的、社会的な領域を統括する「枠組み」や「粒度」は、物理的、物質的、身体的な領域を統括する「枠組み」や「粒度」とはそもそも次元が異なるのであり、それを十羽ひとからげに扱うことは、私めの言う「粒度越境の誤り」に相当するということ。
確かに、たとえばわが訳書『「選択」の神話――自由の国アメリカの不自由』でも取り上げられていた、脳腫瘍のせいで発狂してテキサスタワーのてっぺんから銃で人を殺しまくったチャールズ・ホイットマンに責任があるか否かという問いが生じるのはよくわかる。つまりホイットマンは、社会という粒度で健全に生きて行く能力を欠いていたのだから、そこに〈責任〉の有無の問題が生じるのは当然だと言える。でもそれと、その種の障害を負っているわけでもなく、社会という粒度で健全に生きていけるだけの能力を備えた人間が銃乱射事件を起こしたのに、その人の行動はすべて遺伝と環境によって決まっているのだからそこには〈自由〉もなければ〈責任〉もないと主張するのとでは意味が大きく異なる。なぜなら、ホイットマンの場合には、行為主体性や理性や認知能力や判断力など、人類が進化の過程で獲得してきた、社会が前提としている能力が阻害されていたせいでそのような行為に走ったのに対し、後者ではそれらの能力が阻害されているわけではないにもかかわらず、社会の存続を危殆に陥れる行動に走ったのだからそこに責任がないはずはない。
ここで人間の社会は幻想であって現実ではないと主張する人がいるかもだけど、実のところ人間の社会は、「人間の生」が依拠する粒度において、物理的現実や生物学的現実とは異なる現実を構成していると見なすことができる。「メロンコーク」はわが盟友のトリピーちゃんたちにとっては「水分」という物理的な性質を除けば幻想でしかないのは確かだろうけど、私めにとっては、朝から気分をよくしてくれる、つまり「水分」という物理的な性質以上の性質を備えた紛れもない心的、社会的な現実であることに変わりはない。要するに、物理的な現実は同一であったとしても心的、社会的な現実は〈主体〉の違いによって変わりうるのですね。したがって、繰り返すと物理的、身体的な現実と心的、社会的な現実を一緒くたにすることは、とらえるべき意味の粒度を取り違えた「粒度越境の誤り」あるいは「粒度誤認の誤り」にすぎないと言える。だから「責任と応報も人間の生の一般的な枠組みに属す」というストローソン見方や、「「人間の生の一般的な枠組み」と呼ばれたところに、自由な選択は居場所を有するのである(236頁)」という著者の結論には全面的に賛成する。
ただし第V部に書かれている自由否定論や責任虚構論に対する反論には、「ちと弱くね?」と思える部分もあった。一例をあげましょう。次のようにある。「例えばウェグナーは《人間は自由な選択主体ではない》という命題を主張するが、彼自身はこの命題を生きていない。じっさいウェグナーは、ひとが書いたものを読み、自分で実験を行ない、自分の文章を書き、それを公表するという活動に参与している――こうした活動に参与することは「ひとが何かをすること/出来事がだだ生じること」の区別を認めることを含む。それゆえウェグナーは、その生き方の全体性において、〈主体〉・〈自由〉・〈選択〉・〈行為〉などの概念の適用可能性を認めているのである(231頁)」。でも、「My brain made me do it」と考えている自由否定論者や責任虚構論者なら、「それら一切の行動や活動のすべてが脳の作用に起因しているのだから、そこに〈自由〉や〈責任〉はない」と言い放つだろうと思う。だからもっと根源的な論理のレベルで反論する必要があるような気がする。
今即席で思いついたのでかなり適当だけど、次のような反論ではどうかな? ウェゲナーの「人間は自由な選択主体ではない」という考えも、その反対の「人間は自由な選択主体である」という考えも、自由否定論者や責任虚構論者にしたがえば、身体的レベルに属する脳から生じている。ということは、身体的レベルの現実性に基づいて、それら二つの言明のどちらが妥当かを評価することはできない。なぜなら、いずれの言明も脳の働きに起因しているから。したがってそれら二つの言明の妥当性を評価するためには、心的、社会的な現実のもとで作用する心的レベルという粒度に持ち込む以外にはない。それに対して自由否定論者や責任虚構論者が反論する方法はただ一つしかないように思える。つまり身体的レベルにも〈自由〉や〈責任〉を持ち込むしかない。ところが、そもそも彼らは〈自由〉や〈責任〉の存在を否定しているのだから、いかなる形態であれ〈自由〉や〈責任〉を持ち出すことは、そもそも彼らの主張の前提からして許されないはず。つまり一種の背理法を用いて反論できるのではないかということね。え? それではダメですか、そうですか、ううううう、無い知恵を絞ったつもりだったのに!
ということで、最近の科学は、〈自由〉や〈責任〉などの本来は哲学的な概念とも交差し合うことが多く、それが従来の考え方の補強になる場合もあれば反駁になる場合もある。〈自由〉や〈責任〉という概念に関して言えば、前述したように最近では科学者のロバート・サポルスキーがとってもごつい本のなかで自由否定論、責任虚構論をこれでもかこれでもかと展開している。それを読んだ私めは、その論旨に大いに疑問を持ったのですね。その経緯を述べると、サポちゃんの本だから内容がおもしろければそれなりに売上げは期待できるだろうと能天気に考えて、原書が刊行される以前の今年(二〇二三年)の六月頃に、某社の編集者に草稿を取り寄せてもらった。ところが内容を読むと違和感ありありで、「こりゃ、あかん! そもそもこんなものを出せば哲学者、倫理学者、神学者、法学者にタコ殴りにされてまう」と思って、銀河系一のヘタレの私めはあきらめたというわけ。なお、その編集者もあきらめたはず。そのようなこともあり、この新書本を読んで私めのその感覚がまったくの間違いではないことを確認できたのは非常によかった。最後につけ加えておくと、『Determined』でのサポルスキーのようなマジものの自由否定/責任虚構論者は、この新書本にあるような議論によっても、私めが提起した議論によっても、自分の考えを変えることはまずないと思う。彼らの主張は、究極的にはラプラスの宇宙と同類項と見なして構わないだろうと思う。それがほとんどイデオロギー化しているしね。とはいえ一点だけは指摘しておきたい。仮に彼らの考えがまったく正しかったとしても、哲学者や倫理学者や神学者や法学者ではない一般人が、彼らの主張に実践的な意味を見出すことはあり得ない。ビッグバンが起こった瞬間に、そのおよそ138?億年後に、銀河系の太陽系に属する地球という惑星上に存在する日本という国の入間という都市に立つ八階建てウルトラモダンマンションの四階のうらぶれた四畳半で年末に私めがこの文章を書くことが決まっていたのだとしても、私めは、「自分がこれを書くことは、ビッグバンの瞬間から決まっていたのであって自分の意思によるのではないのだから、書くのはやんぴにしよっと!」などとは絶対に思ったりしない。「いや、やんぴにしないことも、宇宙開闢以来すでに決まってるから」と言うんだろうけど、それに対しては「だから何?」と、ネット民の口調ではねつけるしかない。
※2023年12月31日