◎岡本亮輔著『創造論者vs.無神論者』(講談社選書メチエ)

 

 

最初に宗教に関して個人的な見解を述べておきましょう。私めはバリバリの無神論者でありまする。しかも、このメチエ本の「第4章 四人の騎士」にも登場する、宗教を否定しながら神学大学起源のオックスフォードの禄を食んでいるドーキンスさんが裸足で逃げるような無神論者だと自負している(ヤバ! 紀伊國屋さんに怒られるかも)。何しろお星さまになったら、夢の島にほかしてもらっても結構と思っているくらいだし。ただそれは神さまがいるかいないかなどといった、神学的、教義的なことがらに関してであって、宗教の持つ実践的な利点まで否定するつもりはない。それは昨今の進化科学(とりわけ文化と遺伝子の共進化の理論)の知見からしてもそう言える。たとえば宗教が西洋文化を形作ってきたことに関しては、すでに取り上げた本のなかでは人類学者で進化生物学者のジョセフ・ヘンリックが書いた『The WEIRDest People in the World』を参照されたい。個人的には、とりわけ私めの言う中間粒度の安定に対する宗教の貢献は軽視できないと考えている。だからむしろ、無神論の四騎士のような人たちが、創造論のみならず宗教それ自体を躍起になって否定しようとしている様子を見ていると、「随分と大人げないなあ!」と思えてしまう。たとえて言えば、彼らには、サンタクロースの存在を信じている子どもを相手に、「そんなもん存在するわけないじゃん! キリッ!」とか言って諭している大人に似た感がある(ちなみに私めはかなり長いあいだサンタクロースの存在を信じていた)。

 

個人の話はそれくらいにしてメチエ本の内容に入ると、「第1章 パロディ宗教の時代」は章題どおりパロディ宗教が取り上げられている。最初に上げられているのはマラドーナ教で、もちろん、かのディエゴ・マラドーナさまを崇拝する一種のカルト宗教らしい。何しろ神聖なるサッカーW杯で「神の手」を繰り出した御仁だからね。ちなみにマラドーナは私めと同じ1960年生まれで、しかも彼の誕生日と私めの誕生日は一週間ほどしか離れていない。だから何やら親近感があるんだけど、お薬とかに手を出していたせいか、残念なことに早めにお星さまになってしまった(確か引退する前からすでにブクブクに太っていて、自国メディアからさえ「マラドーナが{いても/傍点}宿敵ブラジルに勝てる」とか言われる始末だったし)。他のパロディ宗教としてあげられている宗教?のなかで出色なのはスパモン(スパゲッティ・モンスター)教で、何でも著者自身もスパモン教会の聖職者の一人でその身分証を持っているらしい。写真を見ると、スパモンのイラストが妙にかわええから私めも欲しくなった。スパモンTシャツもあればぜひ手に入れたい。そうすれば、わがお気に入りのスポンジボブ柄Tシャツとスヌーピー柄夏用半ズボンと合わせて強力なラインアップを組めるからね。

 

まあその手のパロディ宗教はまさしくパロディであってほんとうの宗教ではないとも言えるんだけど、ではほんとうの宗教とほんとうでない宗教の違いは何かと問われれば、いかなる宗教の定義からしても境界線を引くことはそれほど容易ではないとある。私めの考えでは、崇拝の対象になっている神さま(マラドーナ教ならディエゴ・マラドーナ、スパモン教ならスパゲッティ・モンスター)を、信者が超越的な存在として直観的に信じているか否か(著者は「本気で信じているのか?」という言い方をしているけど)によって、ある程度両者は区別できるのではないかと考えている。ただもちろん著者も「ある人が心の底から神を信じているのか、それとも神を信じるのは良いことだと信じているのか、両者の区別はそれほどはっきりしていない(43頁)」と述べているように、信じるか信じないかは主観的な話なので外からそれを判断するのは容易ではない。でもその人の行動/非行動や発言/非発言の一貫性を経時的に追えば、ある程度の判断は可能だと思う。宗教ではないけど、他でも述べた具体例を一つあげてきましょうね。

 

コロナ下で東京オリンピックが開催されたとき一部の左派勢力から「政府は国民を殺しにきている」という物騒な発言がなされていた。この発言だけを取り上げれば、その人が本気で、つまり直観的にそう信じているかどうかは判断のしようがない。でも、もし直観的にそう信じているのなら、同様にコロナ下で甲子園を主催していた朝日新聞や毎日新聞、あるいはJリーグやプロ野球の主催者に対してもそのような激しい批判を浴びせなければおかしい。ところがそれらの団体に対する批判は知る限りではまったく見当たらなかった。保守派は「何で、彼らは甲子園を主催している朝日や毎日も同様に激しく非難しないのだろうか?」という主旨のツイをしていたけど、私めにはその答えは火を見るより明らか。ちなみに保守派のツイやレスのなかには、朝日や毎日は左派メディアでお仲間だから非難しないのだろうと考えているフシがあるものもあったけど、個人的にはそこがポイントなのではないと思っている。その証拠に、そもそも特にお仲間ではないであろうJリーグやプロ野球は非難していなかったのだから。私めの見立てでは、もっとも重要なポイントは次の点にある。この件で政府批判をしていた人々は、「オリンピックを開催した政府は、コロナをまき散らすことで国民を殺しにきている」と直観的に信じていて、ゆえに国民の健康を心配してそう言ったわけではなく、左派の金科玉条である抵抗権や革命権に関するイデオロギーに絡み取られて(本人はそれに気づいていない可能性が高い)その手の発言をしたのだろうと思った。ほんとうに国民の健康を心配しているのであれば、同様にコロナ下で甲子園を主催していた朝日や毎日に対しても、たとえそれらのメディアがお仲間だったとしても、激しい批判を浴びせなければおかしいからね。あちこちで何度も言っていることだけど、歴史の流れを考えると、このように、意識的にせよ無意識的にせよ現実を等閑視してイデオロギーでものごとを判断する人々が、近代になって、とりわけフランス革命以後、政治信条の左右を問わず増えているのだろうと思う。それよりも何よりも、ほんとうに政府が、意図的にせよそうでないにせよ国民を殺しにくるような独裁国であれば、「そんなことをすれば自分の身が危険にさらされる」と直観的に感じるから、身元のバレるようなメディアで国民がその種の発言をしたりはしないということは、わが訳書、ヒューゴ・メルシエ著『人は簡単には騙されない』にも書かれていた。つまり自分は安全だと考えているからこそ、身元がバレるメディアでその種の非難ができたというわけ。

 

メチエ本の内容とは直接関係はないけど、ちょうどよい機会なので、それについてもっと詳しく説明しておきましょう。メルシエ氏のこの見立て(たぶん事実に基づいているとは思う)は、想像力を働かせて次のような問いに答えてみればよくわかる。その問いとは、「中国、ロシア、もっと言えば北朝鮮で、「政府は国民を殺しにきている」などということを、身元のバレるメディアを通じて発言できるのか?」というもの。国際的な評判を少しは気にかけそうな中国やロシアはまだしも(事実、ロシアでは国営放送で「ウクライナ戦争反対」のプラカードを掲げていた勇敢なおねえぴゃんがいたよね)、世界の鉄砲玉、北朝鮮では絶対にできないはず。あるいはロシアのおねえぴゃんのように振る舞うのでさえも相当に勇気がいる(だからこそ世界中でニュースになって、プーチンもおいそれとは彼女を亡き者にできなくなった)。まさに日本が中露北のような強権的独裁国ではなく、「政府が国民を殺しにくるようなことはあり得ない」と直観的に信じているからこそ、日本では身元のバレるメディアでその手の発言ができるのですね。ここで、「政府は国民を殺しにきている」というのは「故意に」という意味で言ったのではなく、「オリンピック開催というまずい政策によって結果的に」という意味で言ったのだと反論する向きもあるかもしれない。そのような向きに指摘しておくと、そうであれば、朝日や毎日(そしてJリーグやプロ野球)を同様に批判しない理由がますますわからなくなる。というのも、「故意に」であれば政府だけが悪意を持っていると無理やり想定することも、それに対する現実的な根拠が何もなかったとしても(「なぜならオリンピックを開催したから」では循環論法になる)、純粋に論理的には可能であるのに対し、「まずい政策によって結果的に」であれば、政府同様に「朝日や毎日は、甲子園開催というまずい方針によって結果的に」と言えることになり、それらのメディアを除外する理由がますますなくなるから。ここで「いやいや、俺/あたいは、マジで故意に政府が国民を殺してきていると直観的に信じているんだ」と言うかもしれない。しかし直観的に信じているか否かを意識的に判断できるのかという問題は脇に置くとしても、それならば前段落で述べたように、ほんとうに政府が、故意に国民を殺しにくるような独裁国では、「そんなことをすれば自分の身が危険にさらされる」と直観的に感じるから、身元のバレるようなメディアで国民がその手の発言をしたりはしないというきわめて当然の見立てと決定的に矛盾する。ナチス政権下でレジスタンス活動をしていた勇敢な人々でさえ、地下に潜ってそうしていたのであり、自分の身元がバレるようなメディアを介してそうしていたのではない。

 

要するに、「政府は国民を殺しにきている」などといった発言を、ツイのようなメディアで平然と開帳している人々が直観的に信じているのは、「日本は中露北のような強権的独裁国ではなく、したがって日本政府が国民を殺しにきたりすることはない」であって、決して「政府は国民を殺しにきている」ではない。むしろ前者を直観的に信じているからこそ、後者のような発言ができるのだから。端的に言えば自分の発言行為が、発言の内容自体を否定しているにもかかわらず、そのことに気づいていないのですね。言うまでもなく、前者の言明と後者の言明は基本的に相互排他の関係にある。「基本的に」というぼかしを入れたのは、「直観は非合理的なのだから、論理的に矛盾する二つの言明を同時に信じることはありうる」という反論が可能だから。しかしそれに対しては、二つの再反論が可能なのですね。一つは、人類学者のレヴィ=ストロース(彼は「直観」ではなく「野生の思考」という言い方をしているけど)や、認知科学者のメルシエやダン・スペルベルは、「直観」には合理的な側面があることを認めているという点(これについてはここでは詳しく述べないので、『はじめての人類学』を参照されたい)。だから直観が非合理的であるという命題は、自明ではまったくない。だがもちろん、レヴィ=ストロースやメルシエら認知科学者のほうが間違っている可能性はある。しかしその場合は、次のような二つ目の反論が成り立つ。それは、「まさに直観は非合理的だからこそ、論理的思考を用いてその間違いを矯正する必要がある」というもの。だからそのような論理的な矛盾に気づきもしない人には、論理的思考力がないということになる。

 

いつものように大きく脱線したけど、言いたかったのは、行動/非行動や発言/非発言の一貫性を経時的に追えば、その人の発言や行動、あるいはメチエ本の文脈で言えば信仰が心底からのものであるか否かを、かなりの程度判断できるということ。もう一つ重要な判断材料として、本人が身銭を切っているか否かもあげられるけど、それについてはここでは述べない(ナシブ・タレブ著『身銭を切れ』などを参照してね)。なお、怪しげな宗教を信じている人でも、必ずしも直観的にその宗教を信じているわけでないことに関しては、理論物理学者ブライアン・グリーンの著書『Until the End of Time』(『時間の終わりまで』(講談社ブルーバックス)というタイトルで邦訳されている)に、自身の経験に基づくおもろいエピソードがあった。詳しくは『人は簡単には騙されない』の訳者あとがきに書いたのでそちらを参照されたい。

 

次の「第2章 猿の町のエキシビションマッチ」は、創造論者対無神論者という話になると必ずや取り上げられるスコープス裁判、つまり一般には{猿裁判/モンキー・トライアル}として知られている裁判について説明されている。ただ最近では、この裁判は、当初はテネシー州の田舎町デイトンの町おこしのために計画されたとも言われているらしい。まあ猿裁判ではなく猿芝居だったのかもってことね。それよりも何よりも、と〜しろ〜の目からすれば、テネシー州では反進化論法(バトラー法)がすでに施行されていたのだから、まともに争えば進化論を教えた教師スコープスの弁護側は勝てるはずもなく(実際負けている)、バトラー法が合衆国憲法に抵触していること、すなわち「特定の理論を教えることを禁ずる州法を発布することは合衆国憲法違反」であることを証明する以外勝ち目はないように思えるにもかかわらず、そのような議論が行われた気配は微塵もなく、進化論と聖書の正当性に関する論議が延々と続いたのは奇妙に思える。

 

この裁判の奇妙な点に関してはメチエ本でも、「2.争点なき裁判」に次のようにある。「大統領候補に上りつめた政治家[ウィリアム・ジェニングス・ブライアン]と当代一の刑事弁護士[クラレンス・ダロウ]という二人の看板役者を得て、スコープス裁判はヒートアップする。むしろ、最初にキャスティングされた被告人スコープスは置いてきぼりの感さえある。というのも、この裁判には争うべきことが何もない。¶バトラー法はテネシー州議会を通過した正式な法律であり、スコープスはそれに違反して進化論を教えたことを否認していない。争点や謎は一つもなく、バトラー法が定める違反一回につき一〇〇〜五〇〇ドルの罰金を納めれば、それで済む話なのである(61頁)」。もちろん当時の一〇〇ドルはそれなりの額だったんだろうけど、実のところ弁護側の意図は、勝訴以外にあったらしい。それに関して次のようにある。「弁護側はいくらスコープスの潔白を主張しても勝ち目はないし、そもそも新米教師の身を案じていたわけでもない。この裁判は、ダロウやその背後のアメリカ自由人権協会にとって、今後キリスト教原理主義者と戦ってゆくための練習試合である。弁護団の狙いは、バトラー法そのものの攻撃だ。反進化論法が政教分離に違反し、学問と言論の自由を犯すものだとメディアを通じて全米にアピールする。そして似たような法律が他の州に広がるのを防ぐのが真の目的だ。スコープスの弁護は、その口実にすぎない(61〜2頁)」。「弁護団の狙いは、バトラー法そのものの攻撃」であったにもかかわらず、本書の裁判でのやり取りに関する記述を読んでも、あるいはすぐあとで紹介する映画『Inherit the Wind』を観ても、不思議なことにこの州法は法廷での論戦にまったく出てこない。まあこれは実質的な裁判の対象がバトラー法ではなくスコープス一個人に絞られた田舎裁判だったからなんだろうけど、それなら最初からたいそうな猿芝居を打つのではなく、バトラー法をターゲットにすればよかったんじゃねって、と〜しろ〜には思えてしまう。おそらく、大物弁護士の登場でことが次第に大きくなってしまったため、裁判の目的と、弁護側と原告側についた弁護士たちの思惑が、途中で大幅にずれてしまったと思われる。メチエ本を読んでいるとその点がよくわかる。

 

実のところ、この裁判は次のようなものだったように思えてくる。当初は田舎町デイトンの町おこしのために始まったことが、ブライアンとダロウという大物弁護士が登場することになったおかげでメディアの注目を浴び始め、焦点がバトラー法を侵犯した一個人から創造論対科学という大げさなテーマに移ってしまい、全米が注目する、劇場政治ならぬ劇場裁判に肥大化した、といった感じ。その証拠に次のようにある。「スコープスがバトラー法の施行以後、聖書を否定する授業を行ったことは裁判の早い段階で明らかになっており、弁護側もこの点は争っていない。そして実は、陪審員はブライアンとダロウの対決を見ていない。二人の問答は陪審員を退席させて行われた。しかも、判事の配慮でブライアンの証言は裁判記録から削除され、最終答弁も見送られた(85頁)」。要は事件のクライマックスをなすブライアンとダロウの対決は実は裁判それ自体とはまったく関係がなく、メディア向けのショーだったと言えそう。だからスコープス裁判には非常に現代的な側面があって、メディア史やメディア論の観点から見てもおもろそうに思えた。

 

ところでメチエ本でも言及されているけど、実はこのスコープス裁判を題材とした興味深い映画がある。それはスタンリー・クレイマーが監督した一九六〇年の映画『Inherit the Wind』(日本では劇場未公開だけど、『風の遺産』というタイトルでDVDが販売されている)で、ウィリアム・ジェニングス・ブライアンをフレドリック・マーチが、クラレンス・ダロウをスペンサー・トレイシーが演じている。ビデオとDVDで何度観たかわからん。トリビア的知識を紹介すると、英語版のDVDの裏面には、「『Inherit the Wind』は、トランス・ワールド航空がファーストクラスの乗客を集めるために、史上初めて機内で上映した映画である」と書かれている。なおこの映画では、クラレンス・ダロウは実は敬虔なクリスチャンであることが最後に判明するんだけど、メチエ本によれば彼は不可知論者だったらしいから、それは映画の脚色にすぎないと思われる。むしろ無神論者の代表は、シニカルで嫌味たらたらのジャーナリスト役で出演していた、歌って踊ってのジーン・ケリーが歌いも踊りもせずに演じていた。ミスキャスト気味と言えばその通りなんだけど、彼は無信仰で、中間粒度から自らを疎外した、いわばデラシネを演じていて非常に興味深かった。

 

さて次の「第3章 ポケモン・タウンの科学者たち」に移りたいところだけど、実のところ第3章は21世紀に入ってからの話なので、一気に一世紀近くワープしてしまう。よって、そのあいだの創造論の展開については触れられていない。ちなみに一九世紀から二〇世紀にかけての創造論の展開については、私めが読んだところではロナルド・L・ナンバーズ著『The Creationists』(HUP, 2006)や、ジョージ・M・マースデン著『Fundamentalism and American Culture』(OUP, 2006)などが詳しかった。前者の著者ナンバーズは、ウィスコンシン大学教授ではあるけど、確か聖書原理主義的なセブンスデー・アドベンティストの家庭の出身だったように覚えている。それからおもろいことに、苗字の「ナンバーズ(Numbers)」は、日本人なら「なんや、宝クジ男か!」と思うかもしれんけど、旧約聖書中の一書『民数記』の英語表記でもある。おそらくたまたまなんだろうけどね。そこでせっかくなので、ナンバーズの著書をもとに二〇世紀における創造論の展開を概略しておきましょう。

 

ナンバーズは創造論者の考え方の特徴として次の6項目をあげている。@宇宙、エネルギー、生命の無からの突然の創造を主張する、A変異と自然選択によっては、単一の生命体から全ての生物種が派生するには不十分だと主張する、B最初に創造された植物種、動物種から、あらかじめ固定化された範囲内のみで変化を許容する[種内の変化しか認めないということでしょうね]、C人類と類人猿のあいだで祖先を分離する、D大洪水の発生などの天変地異によって地球の地質の成り立ちを説明する、E地球と生物種の起源は比較的最近の時代に見出されると主張する。ただし以上は一般化された記述であり、創造論者の間でも考え方にバラツキがある。たとえば「地球と生物種の起源は比較的最近の時代に見出されると言っても、文字通り神が24時間×6日間で天地を創造したと見なし、アッシャー卿の聖書の解釈による計算、すなわち宇宙の誕生を正確に紀元前4004年であるとする説を固く信ずる人もいれば、6日間の各日は必ずしも現在のように24時間であると考える必要はないと考え、従って地質学的な発見による地球の起源をその中に吸収して科学との折り合いを図ろうとする人々もいた。

 

さて、そのような創造論者の活動は、スコープス裁判で1つのピークを迎えるものの、原告側すなわちパブリックスクールで進化論を教えたことを弾劾する創造論者たちは裁判自体には勝つとはいえ、ウィリアム・ジェニングス・ブライアン自身が、クラレンス・ダロウによって証言台に立たされ、それこそ猿芝居と呼べるような失態を演ずることで人々の信頼を失う結果を招く。前述のとおり、法的に言えばテネシー州ではすでにバトラー法が成立していたのだから、判決はそもそも最初から有罪以外ではあり得なかったわけで、したがって裁判の結果よりも裁判という形を借りたスリリング且つエンターテイニングなワイドショー的効果の方がはるかに大きな重要性を帯びてしまう。つまり弁護側は試合に破れて勝負に勝ったようなものだったということ(と町おこしを狙ったデイトンの町もね)。とりわけ原理主義的な創造論は、自らの墓穴を掘るにも等しいこのできごとが起こり、それがさらに当時勃興しつつあった新聞やラジオなどのマスメディアを通じて全米規模のインパクトを持つ程までに拡大されて喧伝されたこともあってか、以後しばらく鳴りを潜める結果になる(なお、公平を期しておくと、『Inherit the Wind』などの娯楽メディアのせいでそのような(誤った)認識が流布されたと主張する研究者もいる)。だが、やがて次のようにして不死鳥のように復活してくる。スコープス裁判で原理主義的な勢力が退潮した後は、創造論者でも表面上はほとんど進化論者と大差のない人々すらメンバーに含むリベラルなASA(American Scientific Association)のような組織が誕生する。このような小康状態が1950年代一杯くらいまで続いた後、1960年代初頭にCRS(Creation Research Society)という組織が創設されることで、再び原理主義的な創造論の復興の兆しが見られるようになる。したがって映画『Inherit the Wind』は、原理主義的な創造論の復活前夜に製作された作品であることになり、奇しくも当作品がそれを予示したと言えるかもしれない。

 

ただし、この時点では活動はまだ極めて限定的なものだったが、やがて1970年代の後半になると完全復活の兆候が現れ始める。そのきっかけになったのは、イェール大学の法律専攻の一学生が、「科学的な創造論は科学であって宗教ではない。よって、それを教えることは宗教教育を禁ずる合衆国憲法の制限を侵害するものではない。その一方、それを教えないことは、創造論を信奉する学生の、自由を行使する権限を侵害する」と提言したこと。創造論者はこの頃になると、より巧妙な手段に訴えるようになり、モロにアンチ進化論をゴリオシするのではなく、イェール大学の学生の提言のように法的根拠に訴えて、少なくとも表面的には進化論と創造論を同等に扱う要求を掲げるようになる。やがてアーカンソー州とルイジアナ州でこの提案が採択され、さらに他の州にも拡がる勢いを見せる。ただし1980年代以後の創造論の復興と、スコープス裁判当時の創造論の隆盛の間には1つの大きな違いがある。それは、スコープス裁判当時の創造論の隆盛はその範囲がおもに北米に限定されていたのに対し、世界に対するアメリカの影響力がはるかに強くなった1980年代においては、創造論はワールドレベルの拡がりを見せたこと。その後1990年代になってインテリジェント・デザイン(ID)論が登場するわけだけど、このID論については第3章の主題なので次に述べる。

 

次は「第3章 ポケモン・タウンの科学者たち」。この章ではインテリジェンス・デザイン(ID)論が取り上げられている。「ポケモン・タウン」とは、二〇〇五年に進化論公聴会が開かれた都市トピカを指している。なぜ「ポケモン・タウン」かと言うと、「一九九八年と二〇一八年には、一日限定でトピカチュウ(Topikachu)に変更された(92頁)」からだそう。世捨て人の私めなんか、ピカチュウという名前と、それが黄色い小動物?であることしか知らないのに、一日限りにせよアメリカの都市がその名を冠したとは大した人気なんだね。ところで進化論公聴会と言っても、参加したのはID論者がほとんどで、科学擁護派は弁護士が一人参加しただけとのこと。まあ相手の土俵には乗らないということなのでしょう。ちなみにID論とは、「何らかの{知的な存在/インテリジェント}がこの世界を{設計/デザイン}した(99頁)」とする考えをいう。第3章は、このトピカで開催された進化論公聴会の経緯が詳細に説明されている。なので、ここではその詳細を説明し直したところであまり意味がないので、ID論に対する私めの考えだけを述べておく。

 

もちろん私めは創造論のおにゅ〜のバージョンであるID論など信じていない。ただし一点だけ、無視できない点があると考えている。それはID論者マイケル・ビーヒ(ベーエ)が著書『ダーウィンのブラックボックス』で提起する次のような問いは決して些末ではないという点。次のようにある。「ビーヒの著書は面白い喩えに満ちているが、一つ挙げれば、自転車と原動機付自転車(以下、原付)の話がある。両者は似たような乗り物に見えるが、それでは、わずかな変化が積み重なれば、自転車が原付という新たな乗り物(=種)に進化するのか(126頁)」。これは、一八世紀イギリスの神学者ウィリアム・ペイリーの有名な懐中時計の喩えと同工異曲だけど、この問い、つまり「原付や懐中時計をほんとうに単純な自然選択による進化論で説明できるのか?」という問いは決して避けて通るべきものではない。ペイリーやビーヒの問いが非難されるとしたら、この問いが、神学やID論の正しさを証明するという目的のもとで問われているからであって、問いそれ自体は科学的な問いとしても有効だと思う。もちろん原付や懐中時計はあくまでも喩えであって、「それらは人間が製作したものなんだから、自然選択による進化論で説明できるわけないやん!」では答えにならない。ではこの点においてID論が正しいと思うかというと、もちろんそうは思わない。デザイナーのような知的存在、あるいは行為主体(エージェント)を持ち出してくること自体は、言うまでもなく科学的な実証や反証が不可能であり、ナンセンスとしか言いようがないしね。

 

でも、だからと言って、単純な自然選択による進化論だけですべての進化を説明できるとも思っていない。たとえば知的存在や行為主体ではなく、専門用語を知らないから仮の言い方になるけど傾向性や傾斜性というような概念なら科学的な実証や反証が可能なのではないだろうか。では傾向性や傾斜性とはいったい何のことかと言うと、その例の一つとして紀伊國屋書店から訳書が三冊ほど出ているエイドリアン・ベジャンの「コンストラクタル法則」があげられる(これで紀伊國屋さんに冒頭の失言を許してもらおう)。三冊の訳書とは、『流れとかたち――万物のデザインを決める新たな物理法』と『流れといのち――万物の進化を支配するコンストラクタル法則』と『自由と進化――コンストラクタル法則による自然・社会・科学の階層制』のこと。実は『流れといのち』は紀伊國屋さんからもらったのに、数式をちらほら見かけたのでヘタレブケダンの私めは、ビビリまくってまだ読んでいない(これで再び怒られそう)。だから実のところベジャンの本はまったく読んだことがなく、アマゾン概要と担当編集者から聞いた話だけをもとに判断している。『流れとかたち』のアマゾン概要には次のようにある。「生物・無生物を問わず、すべてのかたちの進化は、「コンストラクタル法則」が支配している!」。また「有限大の流動系が時の流れの中で存続するためには、その系の配置は、中を通過する流れを良くするように進化しなくてはならない」ともある。つまり万物の進化には一定の法則、言い換えれば傾向性、傾斜性があるということのように思われる。

 

また同じような主張は確か、研究者ではなくサイエンスライターではあるものの、フィリップ・ボールが著書で書いていたように覚えている。要するに知的存在をわざわざ持ち出さずとも、自然選択以外のメカニズムやアルゴリズムでも、複雑な生物や器官の進化を説明できるのではないかということ。もう一つまったくの思いつきを開帳すると、複雑系科学などもある程度援用できるのではないかという気もする。それから傾向性や傾斜性とは直接関係がないけど、アンドレアス・ワグナーが提起しているもののような数理モデルに鑑みて、ペイリーやビーヒが考えているほど困難ではない方法で複雑な生物や器官が進化する可能性があることも考慮に入れておきたい。この数理モデルについては、ここでは説明し切れないので彼の著書『進化の謎を数学で解く』を読んでみてください。ちなみに訳書の表紙には数式が描かれているようだけど、本文にはない。とにかく、この本は強く推薦できる(何しろ原書を読んでとってもとっても気に入り、某社と相談したんだけど、モタコモタコしているうちに他社(のちに文藝春秋社であることが判明)に取られたという経緯があるくらいだしね)。

 

さて次は「第4章 四人の騎士」で、この章では新無神論者の四騎士が取り上げられている。四騎士とは、サム・ハリス(『宗教の終わり――宗教、テロ、理性の未来』)、リチャード・ドーキンス(『神は妄想である――宗教との決別』)、ダニエル・デネット(『解明される宗教――進化論的アプローチ』)、クリストファー・ヒッチンズ(『神は偉大ではない――宗教はいかに全てを毒するか』)の四人(なお括弧内は宗教(の否定)に関する主著であって必ずしも全業績を通じての主著ではない)。ちなみに個人的にはデネットの『解明される宗教』しか読んだことがない。ドーキンスの『神は妄想である』は、原書のぺーパーバック版が手元にあるけど、読んだ記憶がまったくない。たぶんドーキンスの名前で買ったあと、読む気にならなかったのだと思う。まずこの章を読んでの感想を一言。「いや〜〜。何でこの人たちそんなにむきになっているの?」。メチエ本の著書の書き方もあろうが、創造論者が宗教的原理主義者であるとするなら、彼らはその逆の科学的原理主義者であるような印象を強く受けた。

 

彼らの考え方の基本が三つにまとめられているので、まずそれを紹介しておきましょう。それは「@科学至上主義、A好戦性、B運動性の三つ(151頁)」。「@科学至上主義」については次のようにある。「こうした系譜[古代のデモクリトスから現代のサルトルに至る無神論の系譜]と新無神論者が異なるのは、第一に彼らの宗教批判が、哲学的・文学的な思弁ではなく、@自然科学と合理性に全面的に依拠する点にある。特に彼らがこだわるのが神の実在を示すエビデンスだ(151頁)」。「A好戦性」については次のようにある。「新無神論者の矛先は、全ての信仰者と全ての宗教に向けられる。新無神論者にとって、穏健な信仰者など{欺瞞/ぎまん}であり、原理主義者になりきれない{半端者/はんぱもの}だ。ぬるま湯のような信仰を持つマジョリティが宗教を延命させてきた。宗教全てを攻撃し、穏健な信仰という誤謬の温床を叩き潰せば、創造論者の異常な信仰など自滅するというのである(152頁)」。なんか暴力革命を標榜する共産党みたい。「B運動性」については次のようにある。「新無神論者たちは支持者に具体的な応答を求める。自分たちの主張に感銘を受けたのなら、無神論を個人的な信念として心に留めおくのでなく、行動してほしい。周囲との{軋轢/あつれき}を覚悟で無神論者だとカミングアウトしてほしい(152頁)」。なんか極左過激派のオルグ活動みたい。@は別としても、AとBは過激派の信条を思い起こさせる。ただそれはとりあえず脇に置くとしても、私めが彼らの考えに懸念を抱く理由は三つある。簡単に言えば、@自然科学それ自体を停滞させる可能性、A自然科学と人文科学の連携を阻害する可能性、B価値の問題を徹底的に捨象することで科学の暴走が止まらなくなって、中間粒度、それどころか地球それ自体を破壊する可能性の三つだけど、順番に説明しましょう。

 

一つは彼らの主張によってむしろ自然科学それ自体の発展が阻害される可能性があるように思われること。先に述べたように、ペイリーやビーヒの問いは、神学やID論の擁護がその目的であるという点を除けば、科学的にはむしろ十分に考察されてしかるべき問いだと思う。それを「その種の問いを立てるのは創造論者だ」というレッテル貼りをして頭から否定してしまえば、たとえば先に紹介したベジャン、ボール、ワグナーのような独自の科学や数理モデルに基づいた研究は自然に抑制され、生まれてこなくなる。とりわけ四騎士の発言は、結果的にその風潮を助長しているように私めには思える。もちろん四騎士は、直接的にベジャン、ボール、ワグナーのような考え方を否定しているわけではない。しかし、たとえば四騎士の一人、デネットの次のような見方は、結果的にダーウィンの進化論以外の見方を軽視するよう読者を誘導しているようにも思える。次のようにある。「デネットによれば、ダーウィン進化論の凄みは、進化のプロセスが自然淘汰という「心を欠いた、機械的な」アルゴリズムだと指摘した点にある(174頁)」。「自然淘汰」とは「自然選択」のこと(科学者は社会進化論を思い起こさせる「淘汰」という言葉を嫌うと思うけど、メチエ本の著者は科学者ではないのでそういう言い方をしたのかも)。あるいは次のようにある。「デネットはダーウィンの思想を「万能酸」と呼ぶ。万能酸とは架空の物質で、あらゆるものを溶かす。どんなに頑丈な容器にも閉じこめられず、一滴でもあれば最後には地球全体に影響を及ぼす。それと同じで、進化論の威力を生物学だけに留めるのは不可能で、倫理道徳や政治などあらゆる領域が進化論の下で根本的な再検討を迫られるというのだ(174〜5頁)」。だからこそダーウィンの思想は社会進化論や優生学などのヤバい思想まで生んでしまったのだろうけど、あらゆる領域が進化論の影響を受けるのなら、当然他の科学理論も受けることになる。そう考えてしまうと、逆にダーウィンの自然選択による進化論とは異なる進化の理論は邪道であると見なすことにつながる。だから私めは、四騎士の主張のような、ダーウィンをそれこそ神さまの地位に祭り上げるような見方が、自然科学それ自体を停滞させる可能性があると考えているわけ。

 

二点目は、Aにあるように新無神論者の矛先が、創造論、ID論、宗教的原理主義のみなならず全ての信仰者と全ての宗教に向けられていること。冒頭で述べたように個人的には、宗教は中間粒度の安定に寄与しているのであって、そこには実践的な意義があると考えている。そのことは昨今の進化科学の発展によっても明らかにされつつある。それらをすべて等閑視するような彼らの見方には、Bの特徴があるだけに、アナーキズム(無政府主義)のように現実生活を破壊する方向へと世間を傾かせる要素が多分に含まれているように思われる。しかも念の入ったことに四騎士の主張によれば、「「神を信じるのは良いことだと信じる人」には、無神論者すら含まれる。自分は神を信じないが、他の人が神を信じるのは良いことだと信じる人々だ。こうした信じることを信じる人々こそが、穏健な信仰者と呼ばれるマジョリティの正体である。彼らによって、宗教の科学的解明は無礼で冒瀆だという呪縛が維持されてきた。神の実在は信じないが宗教は良いものだと信じる人々によって、宗教は格別の配慮と特権を与えられてきたのである(177頁)」ということになる。「宗教は良いものだ」を「宗教には実践的な価値がある」に代え、「宗教の科学的解明は無礼で冒瀆だ」などとは考えていない点を除けば、この文章は私めにも、またおそらくは冒頭にあげたジョセフ・ヘンリックなど、遺伝子と文化の共進化という文脈のもとで宗教を一つの主題として取り上げている、したがって人文科学の領域にも足を踏み入れている多くの進化科学者にも当てはまってしまう。だから四騎士のような極端な科学至上主義者は、私めが今後ますます重要になると考えている、自然科学と人文科学の連携を断ち切りかねない。自分の考えが絶対だと信じて、科学的にも吟味されてしかるべき他者の考えまでをもつぶしに来ているのだとしたら、それは一種の全体主義であり、科学を進歩ではなく、退歩とは言わないまでも停滞あるいは袋小路に追いやることにもつながりかねない。第4章の最後に「新無神論者は、神の介入なしに進化が起きたと考える二二%以外の全てを敵に回し(182頁)」とあるけど、二二%どころか、神さまの存在など一ミリも信じていない私めのような黄金の国ジパングの無神論者ですら、四騎士の見方は、かえって科学を停滞に追い込むと考えているのですね。

 

私めが四騎士の考えを懸念する理由の三つ目は、そもそも科学の起源は宗教に求められるという説もあり、後者を完全に掘り崩してしまうことは、科学を、いわば『Inherit the Wind』に登場するジーン・ケリーキャラクターのようなデラシネにする結果をもたらしうるという点にある。そもそも科学は、アリストテレスの目的因を捨象することで、以後の爆発的な発展が担保された(アリストテレスの目的因については『アリストテレスの哲学』を参照されたい)。それ以前は、科学と宗教(ならびに価値に関係するすべての学問)が融合していた。ニュートンの主著『自然哲学の数学的諸原理』ですら、「科学」ではなく「自然哲学」と題しているほどだしね。だからかつては、価値に関わる問題は、(前)科学の内部で解決することができた。たとえ価値の問題によって悪い方向にものごとが捻じ曲げられることのほうが多かったとしても。ところが科学から目的論が捨象され、価値の問題が棚上げされるようになると、科学の内部ではなく外部から、科学という営為を遂行していくなかで発生する価値の問題を解決せざるを得なくなった。だから優生学のように、政治思想という外部からの価値観の侵入によって科学が歪められる例も出現し始めたわけ。あるいはスコープス裁判は、まさに創造論という宗教的価値観が科学の領域に侵入した結果起こったと見なすことができる。以上の二例が悪い例であることことは確かだけど、だからと言って、価値を捨象した科学が引き起こす問題は、外部から矯正せざるを得なくなったという事実は変わらない。科学が初歩的な段階にあるあいだは、科学に関連する価値の問題はそれほど発生せず、問題の深刻さも小さかったとしても、ノーベルさんがダイナマイトを発明した頃から急速に科学が進歩することで、実践面で倫理や価値に関する深刻な問題に次々にぶち当たらざるを得なくなってきた。その初期の例の一つはマンハッタン計画と原爆だろうが、遺伝子工学を筆頭に昨今ますます科学は倫理や価値の問題と切り離せなくなりつつある。また今や科学には、下手をすると地球を生物の住めない惑星に変えてしまう可能性があることは、あえて指摘するまでもない。それらの問題を解決するには、今や科学の外側から価値を引き込まざるを得ない、あるいはそれが言い過ぎなら科学の外側の価値に参照せざるを得ない。にもかかわらず、四騎士は科学的原理主義を取ることで、この非常に重要な価値の問題をなし崩しにしようとしている印象さえ受ける。

 

確かに優生学やスコープス裁判で提起された問題、あるいは最近何かと話題の処理水の問題は、最終的に科学で裁決すべき問題だとしても、ダイナマイト、原爆、遺伝子工学などの科学の応用の問題に関しては価値を捨象した科学では答えが出せない。ちなみに科学と工学(エンジニアリング)を分けて、後者の問題は工学の範疇であって科学の問題ではないと反論する向きもあるかもしれないけど、この反論は論理的に成り立たない。なぜなら、それでは単に問題を先送りしただけであって、そもそも工学内では科学と価値の相互作用を考慮しなければならないのだから、科学に価値の問題を関与させるべきではないと考える人は、工学を否定する以外自己矛盾に陥らざるを得ないにもかかわらず、だからと言って工学を否定すれば、科学と工学を分けるべきというそもそもの考えの前提が崩れることになるから。要するに、四騎士の提起するもののような科学至上主義は、自分に都合のよい事例をチェリーピッキングして、自分に都合の悪い事例を無視しない限り、あるいはもっと大げさに言えば科学の重要な構成要素の一つたる反証可能性を切り捨てなければ成り立たないということに注意する必要がある。ちなみに価値の問題とは、事実ではなく心(価値観)の問題であると見ることができ、したがって四騎士の宗教批判は二元論批判の一種と見なすことができようが、最近読んだ入不二基義著『問いを問う』(ちくま新書)には、二元論批判について次のようにあった。「二元論批判は、科学を信頼し、科学による探究の成果に基づく考え方ではあるが、もちろん科学的探究そのもの{ではない/傍点}。言い換えれば、二元論批判を行っているのは、物理学や脳科学などの{科学ではなくて/傍点}、科学を信頼し科学的成果を重視する{哲学である/傍点}。二元論だけが哲学なのではなく、二元論批判もまた哲学であるという点を忘れないようにしよう。「二元論vs科学」という対立{ではなくて/傍点}、「二元論の哲学vs科学を信奉する哲学」という哲学どうしの争いが生じている。この点を、忘れないようにしよう(同書196頁)」。哲学も価値を扱う学問だとするならば、結局四騎士の宗教批判も価値を扱っていることになり、だから過激化すると「科学的原理主義」とも言えるような様相を帯びてしまうわけ。また入不二氏は次のようにも述べている。「[二元論が]一人称的な認識を、そのまま存在領域(魂)にしているのと同様に、三人称的な認識を、そのまま存在領域(もの)にしているのが物理主義である。二元論も物理主義も、どちらも認識の水準と存在の水準を一体化させながら、究極の存在領域を問うている点で、やはり「双子」なのである。二重様相説あるいは中立一元論ならば、そのように考える(228頁)」。二重様相説と中立一元論の詳細に関しては同書を読むか、ググって調べていただくとして、ここでは「高次の立場」程度にとらえればよいでしょう。つまり高次の立場にたてば二元論(ここでは宗教的原理主義)も物理主義(ここでは科学的原理主義)も同じ穴のムジナだということ。この見方に従えば、結局最適解はその両極の中間のどこかに、もしくはより高次の立場から見出されることになる。

 

また科学史的に見ても、媒介的な役割を介してではあったとしても、宗教、とりわけキリスト教(やイスラム教)と近現代科学には連続性があるということは、エドワード・グラントらの科学史家によって何度も指摘されている。つまり宗教を介することで科学が発達したと見る向きもある。あるいは現代の欧米社会(ということは現代科学も含まれる)の基盤がプロテスタント(マックス・ウェーバー)やカトリック(ジョセフ・ヘンリック)によって築かれたという説もあるわけで、それら一切を切り捨てるのなら、その行為はきわめて原理主義的で危険だと言われても仕方がない。個人的な見方では、「創造論対無神論」という極端な分極化は、本来は相補的であるべき宗教と科学の関係を歪んだ形でデフォルメしているのであって、まったく現実離れした空中戦だと思っている。私めは、デネットやドーキンスの他の主張には特に反対しないけど(ただしドーキンスの「ミーム」の概念は???で、「単純に「アイデア」や「コンセプト」じゃ、あきまへんのけ?」とか思っちゃうけどね)、宗教に関するドグマチックな見方だけにはとうてい賛同できない。しかも彼らは影響力が絶大だしね。第1章を取り上げた際に、「意識的にせよ無意識的にせよ現実を等閑視してイデオロギーでものごとを判断する人々が、近代になって、とりわけフランス革命以後、政治信条の左右を問わず増えているのだろうと思う」と述べたけど、四騎士も創造論者もまさにその範疇に入るような気がしてきた。まあドーキンスやデネットにはファンも多いだろうから、タコ殴りにされないようこれくらいにしておきましょう。いずれにせよ欧米社会はキリスト教が流布しているので、言わずもがなのことも言わなければならないという事情があるのだろうけど、キリスト教の影響など一ミリも受けていない、パロディ宗教としてカネゴンとジューシーさま(ジュウシマツ)とニシンの神さまとツクボウさまさましか信じない、私めのようなジパングの無神論者からすると、どちらにしても話が圧倒的に過剰であるように思われて仕方がない、というのが正直なところ。

 

さて「第5章 すべてがFになる」に参りましょう。章題の「F」が気になって、最後まで気が入らなかった。まさか放送禁止用語(まあハリウッド映画を観ていると日常語であるような気もしてくるけどね)ではないのだろうとは思うが、結局最後まで「F」とは何かが書かれていなかった。何なんだろう、この思わせぶりは? それはそれとして、第5章は、基本的にこれまでの章を拡張説明しただけという感じがしたので、詳しくは取り上げないけど、ちょっと最初のほうに気になった記述があったのでそれについてだけ指摘しておく。それは多宇宙論に関してで、次のようにある。「多宇宙論は、現在の宇宙論の標準モデルだという。観測と実験によって裏づけられ、よほどのことがない限りはくつがえらない(191頁)」。これって、ほんとうなんだろうか? 少し前までは、多宇宙論の証明はむずかしいと言われていたと思うけど(証明しようにも交絡因子が多すぎるだろうからね)、今や「観察と実験によって裏づけられ」「宇宙論の標準モデル」の段階まで達しているの? それがほんとうだったらすごいねえ。

 

ただ著者は宇宙物理学者ではなく宗教学者なので、額面通り受け取っていいのかよくわからん。著者が「多宇宙論」と言うとき、瞬間ごとに無限の宇宙が分岐していくなどといった奇想天外な説(エベレット解釈)を指しているわけではなく、泡宇宙モデルのようなより質素な説を指して言っているんだろうとは思う。でもポピュラーサイエンスの翻訳者たる私めは、宇宙論に関する洋書(専門書ではないけど)をそれなりに読んできたし、そのなかには多宇宙論(マルチバース)に言及している本もけっこうあったけど、それはあくまでも仮説として取り上げられているだけであって、少なくともわが記憶に従えば「観察と実験に裏づけられ、宇宙論の標準モデルになっている」などと書かれている本は一冊もなかった。もちろん私めが読んだ本は、多宇宙論を全面的に支持しているわけではない著者の本ばかりで、偏向していた可能性があることは認めるにやぶさかではないとしても、著者もまた、宇宙論の専門家ではないだけに私めとは逆の方向で偏向した本ばかりを読んでいた可能性が考えられる。ちなみに2022年の日経新聞の記(ナショナルジオグラフィックの記事の翻訳みたいだけど)には、「マルチバースの実在を示唆する直接的な観測は行われていない。今のところ、マルチバースの概念を裏付ける証拠は、純粋に理論的・哲学的なものしかない」とある。もしかしてここ一年で状況が変わったのかと思って脚注を確認すると、どうやら著者は2013年に刊行された青木薫著『宇宙はなぜこのような宇宙なのか』(講談社現代新書)という本を参照しているらしい。ということは、一年前どころか一〇年前の、しかも著者が現役バリバリの宇宙物理学者ではない一般読者向けの新書本を参照していることになる(メチエ本自体が一般読者向けなので、他の専門書にはあえて言及しなかった可能性もあるけどね)。ならば、@日経の記事が間違っている、A青木薫氏の本が間違っている、B著者が青木薫氏の本を読み間違えたという三つの可能性しか考えられない。どれなんだろう? もし@でないとしたら、著者(とドーキンスさん)には、非常に都合の悪いことになる。というのも、多宇宙論の話は創造論者が依拠する物理定数の微調整をドーキンスが否定する根拠として取り上げられているから。私めには創造論を擁護する気などさらさらないとしても、「今のところ、マルチバースの概念を裏付ける証拠は、純粋に理論的・哲学的なものしかない」という日経記事が正しかったら、ドーキンスは、科学的に実証されてもいない理論的仮説を根拠にしていることになり、それでは創造論者に大きなことを言えなくなるしね。もちろん科学にとって仮説とその検証という手続きは非常に重要な要素だとしても、科学の厳格さをもってユルユルの宗教を否定するのが彼の目的なら、この態度はダブスタと言われても仕方がない。「新無神論者の心強い味方(217頁)」であるカール・セーガンも、「途方もない主張には途方もない証拠が必要だ」と諫めているわけだし(この記事を参照)。多宇宙論がどう考えても「途方もない主張」であるにもかかわらず、理論的仮説ではとても「途方もない証拠」とは言えないからね。そしてこの矛盾を結果的に見逃した著者も、詰めが甘かったということになる。

 

最後の「終章 宗教と科学の次の百年」では、宗教と科学の関係をいかにとらえればよいかが検討されており、五つのモデルに関する記述がちょっとおもろかった。五つのモデルとは@闘争排他モデル(新無神論者の立場)、A調和融合モデル(ニューサイエンスなど)、B分離独立モデル(スティーブン・ジェイ・グールドなど)、C境界変動モデル、D流用モデルとのこと。著者独自の提案は、CとDだけなので、ここではそれらについて述べておきましょう。まずCについては次のようにある。「境界変動モデルは、科学と宗教の教導権を必要に応じて確認・交渉するものだ。(…)基本的には科学に合わせて宗教が自らの教導権の範囲を調整する。また、このモデルでは、人生の意味や宇宙が誕生した目的といった部分での根本的な対立は解消されないが、見方を変えれば、生命や宇宙の始まりといった起源の問題を避ければ深刻な対立には至らないのである(247頁)」。個人的な感想を述べると、「教導権」などという概念を持ち出すと、どちらが主導するにせよ、権力の問題が表面化するので、中世の叙任権闘争みたいな結果になると思う。Dについては次のようにある。「流用モデルは、科学と宗教のどちらか一方に軸足を置きつつ、必要があれば他方を借用・動員するものだ。日常的には宗教と関わりがなくとも、結婚式や葬式といった機会には宗教を文化として利用する関係性である。(…)信仰はなくても、文化的な道具として宗教を活用する(247頁)」。これは五つのモデルのなかでも、個人的にはもっとも賛同できる。ただ私めなら、「文化的な道具」は「中間粒度を安定させるための道具」と言い換えるけどね。四騎士は、まさにこの「中間粒度を安定させるための道具」の重要性、つまり「宗教の実践的な価値」を軽視しすぎているのではないかと思わざるを得ない。

 

このあたりでまとめに入ると、「創造論者 vs. 無神論者」という対立は、当初は「極端な宗教的原理主義 vs. 科学一般」であったものが、新無神論者の台頭によって逆に「宗教一般 vs. 極端な科学的原理主義」、さらに言えば「宗教を含めた普通の文化的生活を送る一般ピープル vs. 一つの主義主張に拘泥する一握りのエリート主義者」の対立に無理やり変えられてしまったという印象を受けた。著者は宗教学者なので、宗教側に肩入れしていてもおかしくないと思うんだけど、一度だけ読んだ印象では、むしろどちらかというと四騎士らの極端な科学の営みに肩入れしているようにも思えた(ただし著者の書き方は、そのような判断をするには誤解を招きそうな、煽るような書き方をしているので実のところは定かでない)。あえて個人的な見解を言うと、創造論が論外であることは当然としても、これまで述べてきた理由によって、新無神論者は、価値的な側面をなし崩しにすることで、むしろ今後の科学を袋小路に追いやり、自然科学と人文科学の連携を断ち切り、のみならず「中間粒度」の破壊に加担して害をなす可能性すらあると思う。その意味では、自ら名乗ったのではないらしいが、黙示録の四騎士をもじった彼らの通称は実に象徴的だと言えるかも。

 

最後にアングロサクソン系の四騎士がいかに偏った見方をしているかを示すために、ちょうど今読み終わった、ブラジル出身の物理学者マルセロ・グライサーの最新刊『The Dawn of a Mindful Universe』(Harper One, 2023)に、彼らとは正反対の見解があったのでそれを紹介することで、締め括ることにしましょう。次のようにある。「{科学と世俗的な精神性を結びつける動き/傍点}は、世間知らずでも無知でもない。世間知らずで無知なのは、「ものごとはいつまでも現状のままであり続け、万事うまくいくであろう」と、あるいは「私たちにできることは何もない。科学だけが私たちを救ってくれる」と信じ続けることだ。科学が私たち人類の集合的な未来を拓くための必須のツールであることは確かだが、変化の原動力としての地球や生命との情熱的なつながりや、世界に属しているという感覚、そして私たちは種として集合的に変わることができるという堅固な信念がなければ、科学はおおむね、産業革命以来ずっとやってきたように、いかなる道徳的懸念も抱かずに、自然環境に対する私たちの支配を拡大し続けることだろう。集合的な善に資する力になるためには、科学は、地球や{生物圏/バイオスフィア}との精神的なつながりを反映する生命中心主義的な価値観に沿う必要がある。この動きは起こりつつあるものの、いまだもたついている(同書204頁)」。もたつかせている要因の一つが、四騎士らが推進している科学至上主義だと思う。

 

 

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※2023年9月20日