◎ケント・グリーンフィールド著『〈選択〉の神話』
※以下の内容は、刊行されている同書の訳者あとがきの内容とはまったく異なります。
『〈選択の神話〉――自由の国アメリカの不自由』は「選択の自由およびそれに基づく自己責任」というアメリカ文化の核をなす考え方に疑問符をつきつける書である。選択の自由の問題をメインに扱っているという点では、白熱教室で有名なシーナ・アイエンガーの著書『選択の科学』の類書だといえよう(本書でも彼女が行った有名なジャム選択の実験が例としてとりあげられている)。しかし本書の著者ケント・グリーンフィールドは心理学者でもなければ行動経済学者でもなく法学者であり、心理学や行動経済学は一つの素材として用いてはいても、それら自体の概説書ではまったくない。むしろ法学、心理学、社会学、行動経済学などの知見を駆使しながら、アメリカ文化の問題点を総合的な観点からえぐり出すことが本書の最大の目的だといえる。
訳者が最初に本書に注目した理由の一つとして、個人的にアメリカ文化の神話的側面に興味があったことがあげられる。訳者は一九五〇年代から七〇年代のアメリカ映画のファンで、それに関する本を自費出版したこともあるが、その年代のアメリカ映画の一大ジャンルに「西部劇」があった。個人的には、西部劇とは基本的にアメリカの神話を体現するジャンルだと考えている。もちろん西部劇は、表面上は歴史的なできごとを扱っていてもかなりの部分がフィクションではあるが、むしろそうであるからこそアメリカ文化に内在するアメリカ史の神話的側面がみごとに透けて見えるのだとも言える。そこで、本書で扱われている「自由な国アメリカの不自由」というテーマのなかの、とくに文化的な制約と神話的なイリュージョンの結託がよくわかる例を西部劇のなかからとりあげてみよう。
西部劇ファンなら名作中の名作『シェーン』(ジョージ・スティーブンス監督,1953年)を知らない人はいないだろう。ワンコインDVDでも手に入るので、まだ観たことのない人にはぜひ鑑賞をおすすめする。この映画は、ホームステッド法(一八六二年に発布され、公有地に五年間住んで土地の改良を行った開拓者に、一六〇エーカーの土地を払い下げると規定されていた)が施行された直後を舞台にし、新たに西部にやってきたホームステッダーの農民(スターレット家)とそれ以前から居住していたカウボーイ一家(ライカー家)の土地をめぐる紛争を描いている。ちなみにこの映画ではカウボーイのライカー一家は悪漢として登場するが、「インディアンの襲撃に耐えてこの土地を守ってきたのは俺たちだ」と主張するライカーの言い分は必ずしもでたらめではなく、『シェーン』は、単純な勧善懲悪の物語としてではなく(もちろんエンターテインメント映画としてそうみることのほうが簡単だが)、南北戦争当時の、歴史が転換する過渡期の困難な状況が描かれている一種の社会史的な映画としてとらえるべきだと個人的には考えている。
ウィル・ライトという人の書いた本に『Sixguns & Society』(University of California Press, 1975)という、西部劇を分析したかなり有名な本がある。そのなかでライトは西部劇を四つのタイプに分類している。それによれば『シェーン』はクラシックタイプに分類されるが、クラシックタイプの大きな特徴の一つは、ヒーローが共同体の外からやってくるという点にある。『シェーン』の場合でいえば、アラン・ラッド扮する主人公のシェーンがそれにあたり、彼はどこからともなくスターレット家の住む谷に降りてくる。また、シェーンと最後に対決するこわもてガンマン、ウィルソン(ジャック・パランス)も実はライカー一家の一員ではなく雇われガンマンだということにも注意が必要である。つまりこの映画では、ヒーローもその最大の敵(昨今のゲーム用語でいえばラスボスといったところ)も、ともに共同体の外からやってきた人物だということになる。ちなみに『シェーン』と、ウィル・ライトによるその分析は、このレビューを参照されたい。
つまりシェーンもウィルソンも共同体という一つの文化の埒外に存在し、これはこの二人が基本的には共同体からの制約を受けずに、自分の意思によって行動できる立場にあることを意味する。殺し屋のウィルソンはともかく、とりわけシェーンのような外来の人物がヒーローとして描かれている点は注目に値する。ここで少し長くなるが、この点を明確化するためにリチャード・スロットキンというアメリカ史家(アメリカ史の神話的な側面について徹底的に解明した三部作で知られる。この三部作はいずれも大著だが、英語を苦にしない人でアメリカ文化の神話的側面の起源について詳しく知りたい読者には推薦できる)の著書『Gunfighter Nation』(University of Oklahoma Press, 1998)から引用しよう。「〈谷を救え〉という方針は(……)相争う二つの階級のどちらにも属さない二人のプロの対決へと収斂されていく。今やウィルソンは農夫たちの最大の敵としてライカー一家の代理として立ちはだかる。ウィルソンは名目上ライカー一家の〈道具〉ではあるが、実際にはライカー一家の力が具現化した存在だとみなせる。そしてプロフェッショナリズムという面でそれに匹敵するのはシェーンだけだ。したがってスターレットもリーダーとしての、そしてヒーローとしての役割を〈傭兵〉のシェーンに委ねなければならない。共同体のためにではあれ、あるいは必要ならば共同体に逆らうことになろうと、ここでは行動する力をもつ者こそが行動の責任を負える者なのだ」。
「行動する力をもつ者こそが行動の責任を負える者」、これはまさにアメリカ人が描くアメリカンヒーロー像の一つの特色だと言えるのではないか。そして行動する力をもつ者とは、自分の意思で行動を選択できる者のことだ。アメリカの開拓史時代を背景として一人の英雄がほんとうに自由意志を行使できたのかどうかはここでは問題ではない。なぜなら、『シェーン』は一種の神話なのだから。しかしそれは別としても、ここには留意すべき点があることを忘れてはならない。それは共同体の外部からやってくるシェーンの存在には、まさに「共同体には外部が存在する」という前提があるという点である。ところが西部開拓史時代には存在していた広大なフロンティアは徐々に縮小し、一八九〇年には「フロンティアの消滅」が宣言される(ちなみに西部劇を文化史的に鑑賞する際のヒントを一つあげておくと、西部劇のなかに登場する「鉄道」はまさにこの「フロンティアの縮小・消滅」を象徴している)。そうなるともはや大きな意味において共同体の外部にはなんびとたりとも存在し得なくなり、誰もがアメリカ社会という文化の制約を受けざるを得なくなる。そしてそれはたとえマフィアのような反社会的な集団に所属していたとしても同じことなのである。
このように考えてわかるのは、広大なアメリカといえどもフロンティアが消滅した現在は誰もが文化の影響を受けて生きざるを得ないにも関わらず、シェーンのような文化的制約の埒外に置かれているヒーローが、一種の神話のなかでアメリカ人の理想像としていまだに影響力を持っているということだ。実をいえば、西部劇の主人公のタイプはベトナム戦争以後急激に変化し、またウィル・ライトもシェーンのようなクラシックタイプのヒーローから賞金稼ぎ的なプロフェッショナルタイプへと一九六〇年代に推移していくということを論証しており、西部劇におけるヒーロー像のとらえ方はつねに一様だったわけではない。
しかしいずれにしても、同書で扱われている「文化的規範に左右されずに自由意思を行使することが可能で、そうする者こそが自己責任を全うできる」とするアメリカ的な思考様式のルーツには、シェーンのようなヒーロー像によって体現されるアメリカの(選択の)神話が存在するということは、この例からも見てとれるのではないだろうか。ここには、文化的な装置が神話を通して真実を覆い隠すという、社会学者ルネ・ジラールが聞いたら喜びそうなメカニズムが機能していると言えば、大げさだろうか。
さて、ここで一つだけ訳語の選択に関する説明をしておきたい。それは本書のカギ概念の一つ「知的共感(原文はempathy)」という用語に関するものだ。実はこの用語の解釈はきわめてむずかしく英米人ですら「empathy」と「sympathy」の区別をしていない場合が多いと聞く。「empathy」に関しては、手元の英和辞典では「共感」、「感情移入」などとなっているが、少なくとも本書で「empathy」とあるところは「感情移入」でないことはもちろん、単に感情的な共感という意味では用いられていない。そのことは第8章の次の部分によってわかる。「しかし裁判という文脈のなかでは、知的共感能力(empathy)は哀れみを意味しない。保守主義者は知的共感能力を一種の感情としてとらえている点で間違っている。裁判における知的共感の適切な定義は、判事がどう感じるかにではなく、いかに考えるかに焦点を置く。つまり知的共感とは、弁論のなかに埋もれている{状況/ストーリー}の個別的な側面に献身的に耳を傾けることをいう」。つまりひとことで言えば、本書における「empathy」とは「他者の立場に身を置いて考える」ことを意味し、「他者にあわれみを感じる」ことや、「他者に同情する」ことをではない。このような理由から本書では「empathy」は知的共感と訳した(また実際著者も明示的に「intellectual empathy」としている箇所もある)。「empathy」という語のこのような使い方は著者の恣意的な用法では必ずしもない。というのも、そのような意味で「empathy」という語が用いられているケースをときにみかけるからだ。一例をあげると、拙訳によるポール・ブルーム著『反共感論――社会はいかに判断を誤るか』(白揚社,2018年)では、感情移入にあたる情動的共感と、知的共感が明確に区別されている。本書の著者ケント・グリーンフィールドはこの知的共感という意味での「empathy」を文化の制約を脱するための一つの重要な手段としてとらえており、その意味を明確に把握しておくことはきわめて重要だといえる。
オバマ大統領がアメリカはもう世界の警察をやめると言い出してからかなりの年月が経ったが、今日でも、アメリカが日本にとって大きな存在であることにはまったく変わりはないし、今後も変わらないだろう。その点においてアメリカ文化理解の重要度が下がることはないはずだ。アメリカでは、ことにリーマンショック以後、レーガン以来の新自由主義的な政策に対する批判の声が高くなり、それをテーマとした書物も無数に刊行されている。本書の著者も大きな政府を支持するリベラルの立場をとっているが、他の多くの著者のように政治なら政治、経済なら経済というようにたった一つの専門領域の視点からではなく、総合的な視点から政治的、文化的事象をみており、しかも実例を多数用いているので一般の読者にもきわめて読みやすい本に仕上がっている。ぜひ多くの読者に本書を読んでもらいたい。
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