◎D・S・ウィルソン著『社会はどう進化するのか』
本書はThis View of Life: Completing the Darwinian Revolution(Pantheon Books, 2019)の全訳である。メインタイトルのThis View of Lifeは、ダーウィンの著書『種の起源』の末尾の文章からとられている。著者のデイヴィッド・スローン・ウィルソンは、ニューヨーク州立大学ビンガムトン校で教鞭をとる進化生物学者で、社会的協調の文化的進化をめぐるマルチレベル選択説で知られている。既存の邦訳には『みんなの進化論』(中尾ゆかり訳、日本放送出版協会、二〇〇九年)があるが、宗教の文化的進化に自説を適用したDarwin's Cathedral: Evolution, Religion and the Nature of Society(University of Chicago Press, 2002)は、社会を進化論的観点から分析する他の本でよく引用されている。また、訳者が最初に読んだ著者の本でもある。本書『社会はどう進化するのか』の理論的基盤も、マルチレベル選択(グループ選択)にあるが、学術系のシカゴ大学出版局から刊行されているDarwin's Cathedralはかなり専門色が濃いのに対し、本書は誰にでも読みやすい一般読者向けの本として書かれている。ちなみにグループ選択を含めたマルチレベル選択説の是非に関しては、専門家のあいだで見解が分かれているようであり、否定する学者も少なからずいる。訳者が最近読んだ本で言えば、本書の原書とほぼ同時期に、同じPantheon Books社から刊行された、リチャード・ランガム著The Goodness Paradoxでは、あからさまな否定はしていないものの、協力関係の文化的進化はグループ選択を用いずとも説明可能であると論じられている。いずれにせよこの点については、専門家ではない訳者があれこれ述べるべきところではないので、その是非は読者諸兄の判断にゆだね、これ以上触れることはしない。なお著者の父親は一九五〇年代に活躍した当時の人気作家スローン・ウィルソンで、映画化もされている『灰色の服を着た男』や『避暑地の出来事』は、当時はよく知られていた(どちらも今では忘れ去られているが、マックス・スタイナーが作曲した、『避暑地の出来事』の主題歌『夏の日の恋』は映画音楽のスタンダード・ナンバーとして有名で、現在でも耳にする機会が多い)。
さてここで、各章の内容を簡単に紹介しておく。大雑把に言えば、第5章までが理論面重視の基礎編、第6章以後が実践面重視の応用編と見なすことができる。
まず基礎編から。「序」と「はじめに:この生命観」は本書全体の概観を示す。「第1章 社会進化論をめぐる神話を一掃する」では、進化論の枠組みを用いて社会の進化を説明しようとする理論に対する誤った認識、すなわち社会進化論の神話がいかに根拠のないものであるかを明らかにする。本書の議論を進めるにあたり、この釈明は必須のものと言えよう。「第2章 ダーウィンの道具箱」は、進化の過程を通じて形成された事象を理解するために有用な概念ツールとして、ティンバーゲンの四つの問い(「機能に関する問い」「系統発生(歴史)に関する問い」「メカニズムに関する問い」「個体発生(発達)に関する問い」)を紹介する。この概念ツールは以後の章で頻繫に言及され、その観点からさまざまな分析がなされる。「第3章 生物学の一部門としての政策」では、政策を生物学的知識に基づかせる必要性を端的に示す三つの事例が取り上げられる。「第4章 善の問題」は、神学における悪の問題とは異なり、進化論の世界観では善の問題、すなわち「自然選択が支配する進化の過程で、なぜ善が生じ得るのか」という問いが重要になることが示され、進化における善悪の顕現に関する三つのストーリーが語られる。「第5章 加速する進化」は、遺伝的進化と文化的進化が相互作用することで進化が加速してきたことについて、三つの具体例を用いて解説する。
次に実践編に移ろう。「第6章 グループが繁栄するための条件」は、社会が成立するための基礎単位と著者が見なす「グループ」のメカニズムが検討される。ちなみに第6章はすべての章のなかでもっとも長く、本書の核をなす章でもある。本章の前半は理論編の続きと見なせ、グループが繁栄するための条件を、政治学者でありながら二〇〇九年のノーベル経済学賞を受賞したエリノア・オストロムが提唱する八つの中核設計原理(CDP)に見出す。後半はCDPの実践面での有効性が、学校、近隣社会、宗教団体、企業という四つのグループを対象に検討される。「第7章 グループから個人へ」は、グループに関して第6章で提示された見方を個人の生活に適用する。「第8章 グループから多細胞社会へ」は、第7章とは逆に第6章の見方を、国家を含むより大規模なグループへと拡大適用する。「第9章 変化への適応」では、グループが変化にいかに適応できるのかが、トヨタの事例などを用いて論じられる。「第10章 未来に向けての進化」は、よき社会を形成するために自分たちに何ができるのかを検討しつつ、本書を総括する。
ここまで見てきたとおり、本書の主眼は、よき社会を形成し維持するための政策を立案するにあたっては、生物学、とりわけ進化の科学に参照する必要があるという論点をわかりやすく解説することにある。実のところ、英語圏では最近になって進化と社会の関係を扱う本が続々と刊行されている。今年に限っても、本書の他に次の本があげられる。
◎マイケル・トマセロ著Becoming Human: A Theory of Ontogeny(Belknap Press)
◎リチャード・ランガム著The Goodness Paradox: The Strange Relationship Between Virtue and Violence in Human Evolution(Pantheon Books)
◎ニコラス・A・クリスタキス著Blueprint: The Evolutionary Origins of a Good Society(Little, Brown Spark)
◎エドワード・E・ウィルソン著Genesis: The Deep Origin of Societies(Liveright)
◎マーク・W・モフェット著The Human Swarm: How Our Societies Arise, Thrive, and Fall(Basic Books)
以上の書籍のうち、E・O・ウィルソンの小著を除きすべてを読んでいるが、一般読者にもっとも読みやすく、分量的にも手頃な本として本書に特に着目し邦訳した。では、進化の観点から社会やグループを考察する本が続々と刊行されている理由は何か? 進化論関連の本には、もとより相応の人気があることを考えれば、単なる偶然にすぎないのだろうか? もちろんその可能性もあろうが、個人的には、国連やEUなどの超国家的組織が円滑に機能しているとはとても言えず、ポピュリズムが猖獗を極める昨今の世界情勢に鑑みると、国家、一般社会、企業、家族などのグループが円滑に機能する条件とは何かがこれまでになく問われるようになりつつあるからではないかと考えている。それらの問題について考える際、単なる思いつきや特定のイデオロギーに絡め取られないようにするためにもっとも重要になる留意点は、少なくとも何がしかの科学的基盤に依拠することであり、その基盤の一つを与えてくれるのが進化の科学なのである。
ここで昨今世間の耳目を集めている政治的、政策的なトピックと絡めてそれについて考えてみよう。日本人の誰もが知るとおり、日本は二〇一九年五月をもって令和の新時代に突入した。それにあたり頻繫に取り沙汰されるようになったトピックの一つが天皇制である。なぜ天皇制は、かくも長く続いているのか? のみならず、イギリスやスペインはおろか、カトリックとは異なり共同体より個人の信仰を重視するプロテスタントの影響を強く受け、これまでもっともリベラル的、進歩的な国と見なされてきた北欧三国(スウェーデン、ノルウェー、デンマーク)、ならびにベネルクス三国(オランダ、ベルギー、ルクセンブルク)では現在でも君主制が存続している。なぜか? 単にフランスのように打倒する機会がこれまで一度もなかったからなのか? 個人的な考えを言わせてもらえれば、そうではなく、日本にせよ、北欧ならびにベネルクス諸国にせよ、人間の本性や社会のあり方の根源に通ずる何かが、君主制にはあるからなのではないだろうか。ポピュラーサイエンス書の訳者あとがきで、天皇制の是非やあり方について議論するつもりは毛頭ないが、次の点だけは指摘しておきたい。天皇制の議論になると、いかなる立場をとろうがとかく感情的になりがちだが、社会を維持する装置として君主制というシステムがいかに機能しているのか、あるいはしていないのかを生物学、とりわけ進化の科学に基づいてもっと客観的に明確化してから、さらに言えばティンバーゲンの四つの問いに答えてから論ずるべきであろう。余談になるが、現代における君主制の様態をわかりやすく解説した本として(ただし進化論的観点はとられていない)、国際政治学者、君塚直隆氏の著書『立憲君主制の現在 日本人は「象徴天皇」を維持できるか』(新潮選書、二〇一八年)をあげておきたい。
もう一つトピックをあげよう。昨今世界の至るところで、人権や表現の自由などといった、啓蒙の時代を経て人類が苦労して、そして血を流して手にしてきた気高い理念をいざ実践に適用しようとした途端に、さまざまな問題が噴出し、あつれきを生んでいる状況にある。人権に関して言えば、たとえばアファーマティブアクションをめぐる問題や移民の問題をあげられよう。表現の自由に関して言えば、最近の日本でもそれに関するいくつかの案件をめぐって、左右両陣営が論争を展開しているのは誰もが承知のはずだ。なぜそのような状況に陥っているのか? 思うに、人権や表現の自由などの普遍的な権利に関する概念であっても、それが実践に適用される際には、つねに特定のグループ(または個人)がその対象になり、それゆえ皮肉にもグループの境界を際立たせるというパラドックスに陥ってしまうからではないか。たとえば、あるグループを人権の適用の対象とすれば、別のグループがその範囲から逸脱せざるを得ず、その時点で普遍性を失ってしまうのである。
ここでそれに関して、昨今改正をめぐる議論がかまびすしい日本国憲法に即して考えてみよう。日本国憲法において、基本的人権は第一一条で、そして表現の自由は第二一条で保障されている。しかしながら第一二条には「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」とある。端的に言えば、第一一条と第二一条は個人の普遍的な権利の保障に関する規定であるのに対し、第一二条はそれを実践面に適用する際の条件を規定し、その後半では公共(共同体=グループ)の福祉に対する配慮に明確に言及されている。個人にはグループの維持や安寧に資する社会的責任があるとするその見方は、とりわけ協調の進化に関する進化論の世界観とも符合する(本書ではとりわけ第6章を参照されたい)。したがって第一二条の後半の記述を無視して、言い換えると進化論の知恵を等閑に付して無条件に人権や表現の自由をふりかざせば、人間の本性が発露せざるを得ない実践面で、さまざまな問題が噴出してしまうのである(そもそも人権と表現の自由でさえ、実践面では相互に対立し得る)。そしてそのような態度は、その意味で非科学的だとさえ言えよう。
このように、普遍的な権利であるはずの基本的人権や表現の自由を、普遍的という理由で文脈を考えずに、あるいは日本国憲法に従って言えば公共の福祉を無視して特定のグループに適用しようとすると、逆説的にも、人間がその本性として持つ、自グループを選好しようとするバイアスがあちこちで頭をもたげてくる。その点に関しては、本書ではおもに第4章で論じられており、たとえば「グループ選択は、不道徳な行動を{排除する/傍点}より、グループ間のやり取りのレベルへとそれを{高める/傍点}のである。かくしてグループ内の利他主義は、他のグループに対する集団的な利己主義と化し得る」(一〇五頁)とある。また前掲のクリスタキスの浩瀚な新著Blueprintでも、彼が社会性一式(social suite)と呼ぶ、人間が{青写真/ブループリント}として持って生まれた八つの能力の一つとして「自グループを選好する傾向」があげられ、「グループの外部の人々より内部の人々を選好することで境界を画し、自グループを形成する」ことを基盤に人々は協力し合うようになると述べられている。グループ{内/傍点}の協調は善だとしても、その形成には、グループ{間/傍点}という、より高次のレベルでのトレードオフがつきまとうとも言えよう。
これらの事例によって訳者が言いたいのは、それぞれのトピックに関して左右どちらの陣営が正しいかということではなく、科学的な視点、とりわけ人間の本性を理解するにあたってカギの一つとなる進化論的な視点を欠けば、対立するイデオロギー同士の無益な空中戦にしかならないということである。それに関連して著者は、第4章の冒頭で、「政策を生物学の一部門として見ることは、すべきとされる行動が、深く進化に依拠したものでなければならないことを意味する。世界のどこで暮らしていても、私たちは、制度、政治イデオロギー、聖典、個人の哲学を参考にするのと少なくとも同程度に、進化論を参考にすべきである」(七〇頁)と述べている。まさに本書は、政策を立案するにあたって、生物学、とりわけ進化論に参照することの重要性を、具体的な事例を多用して誰にもわかりやすく解説する入門書だと言える。理想や理念においてだけではなく実践面において、家族、近隣社会、企業、国家など、さまざまな単位の社会の改善に興味を持つ読者にはぜひ推薦したい本である。
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