河野多恵子 こうの・たえこ(1926—2015)


 

本名=市川多恵子(いちかわ・たえこ)
大正15年4月30日—平成27年1月29日 
享年88歳 
奈良県奈良市春日野町160 春日大社



小説家。大阪府生。大阪府女子専門学校(現・大阪府立大学)卒。大阪の乾物問屋に生まれ、昭和25年丹羽文雄主宰の同人誌『文学者』に参加。38年『蟹』で芥川賞受賞。谷崎潤一郎の衣鉢を継ぎ特異な感覚で意識内の世界を描く。55年『一年の牧歌』で谷崎潤一郎賞受賞。ほかに『不意の声』『半所有者』などがある。







 死ぬことは兎も角としても、そういう形で死ぬのが運命だとしても、突然、ただちにと言われると、則子はどうしても承服できなかった。
「猶予をください」
と彼女は願い、そして訊かれた。
「覚悟がつくまで待ってほしいというのですか?」
「誰にも死ぬ覚悟なんてつく筈はないでしょう」
と彼女は答えた。「殊にわたしは、年とった不治の病人なんぞじゃありません。まだ中年で、体は丈夫で、少くとも自分では頭も心も確かです。それに、わたしの躰には、昔の武士とやらの血は一滴だって流れていませんもの。余程手際よく死なせてくださらないと、格別に往生際はわるいでしょうよ」
「霊魂を信じていると言っていましたが……?」
「信じていますよ。けれども、だからといって、あっさり死ねることにはなりませんわね」
「それでも信じていないよりは、ましでしょう?」
信じられないほうが、却っていいんじゃないかしら。霊魂なんて、本当に無力なものだろうと思いますよ。この世の人間の精神を感じたり、それに作用することはできても、肉体や、それから物質は見ることもできないし、関わることもできないものだと、私は想っているんです。それに、精神に対してだって、先方さまの感度が鈍かったり、過敏すぎたりして、蒼いサインを捕え損ねられるとか、意味を深く取りすぎて誤解されるとかというようなことが始終でしょう。焦立たしくて、作用を発する気持も失せてしまう。こちらで感じる、人間の精神だって、ありがたくないものばかりが増えてくる。霊魂なんて所詮、焦立たしさと口惜しさの塊りみたいなものでしょう。永久にそんな苦しみの塊りにさせられるかと想うと、わたしは死ぬのが一層怖いのです。死ねば一切が消え失せると考えることのできる人たちを羨みます。———」
そこで彼女は叫んだ。「ああ、本当にいつまでも霊魂と肉体とが結合してほしいこと!せめて、死んでも———結合だけは」

               

(最後の時) 



 

 芥川賞、女流文学賞、読売文学賞、谷崎潤一郎賞、日本芸術院賞、伊藤整賞、川端康成文学賞など名だたる文学賞を総なめした河野多恵子が最後に手にしたのは平成26年の文化勲章受章であった。谷崎潤一郎の後継として、偏執的、倒錯的、観念的な作風で高い評価を受けたが、〈自分の終着駅について考える時、せっかく逝くのだから、それが少しは毛色の変わったものであってほしい気持ちが、かねて私にはある。〉とも〈私は同じ四月(注・シェイクスピアの生まれた月)の三十日に生まれた。何十回目かの誕生日にあたる、その日に逝きたい。私の好きな連翹が咲き展がっているにちがいない。〉とも書いた彼女の終着駅は平成27年1月29日午後7時15分、呼吸不全のため東京都内の病院で死去というものであった。



 

 東方に春日山連山の中心をなす御蓋山を望む春日大社には参道や渡り廊下におびただしい数の石燈籠や釣燈籠が奉納されている。御本殿そば、社殿の東側を囲む北御廊と内侍殿を結ぶ捻廊を登り切った軒隅に一基の釣金燈籠が下がっている。六面体の一面に二匹の鹿のレリーフ、隣りの夫君の名を挟んで「平成二十七年帰幽 享年九十歳 市川多恵子 命 冥福向上 作家筆名 河野多恵子」の文字が読み取れる。彼女の実家には父君の意向でお墓がないそうだが〈すべての芸術は生きて在る歓びに始まる〉という一行が刷り込まれている河野多恵子全集の函に巻かれた帯のように、彼女の芸術もすべてこの一基におさまってあるかのように思えてくるのは、この釣燈籠こそが彼女のお墓である証しかも知れない。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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