今 官一 こん・かんいち(1909—1983)


 

本名=今 官一(こん・かんいち)
明治42年12月8日—昭和58年3月1日 
享年73歳(幽玄院純文官光清居士)❖幻花忌 
青森県弘前市西茂森2丁目9–1 蘭庭院(曹洞宗)



小説家。青森県生。早稲田大学中退。昭和9年檀一雄、太宰治らと同人誌『青い花』を発刊。10年『日本浪曼派』に参加する。『海鴎の章』『幻花行』などで注目され、『壁の花』で31年度直木賞を受賞。『牛飼の座』『角瓶の中の処女』『牛飼いの座』などがある。







 時間の存在を身にしみて知った払にとって、死は観念の世界のものではなくなった。人間の生命は時間の流れとともに推移し、或る瞬間、弦が音を立てて切れるように死の中に繰りこまれてゆく。死は決してまぬがれられぬものであり、生きてゆくということは、一刻一刻死への接近を意味している。誕生したばかりの新生児すら、すでに死への歩みをはじめている。
弟の死は、眼前にせまっている、と解すべきであった。五十年———一万八千余目を生きてきた弟の肉体は、医師の推測によればあと三十日前後で物体と化す。死が確定しているものなら、残された時問が多半短縮されることはあっても、苦痛が幾分でも軽減されれば、その方がよいのではなかろうか。
 私の内部では、弟はすでに死者に等しいものになっていた。弟の生命の弦が切断される瞬間は、近々のうちに必ずやってくるし、それに対する心購えもととのえておかねばならない。
 路面に眼を落して歩きながら、私は人間として不遜なのかも知れぬ、という罪の意識に似たものが胸の中をよぎるのを感じた。たとえ兄であるからとは言え、弟の肉体は他者のそれであり、延命を義務とする医師にその努力を放擲して欲しいと告げる資格はない。死に対する自分なりの考えを弟に押しつけるのは、僭越ではないだろうか。

(冷たい夏、熱い夏)



 

 太宰治とは同郷、同い年ということもあって親しく交わり、彼の入水自殺には大きな衝撃を受けたのだが、太宰の命日を〈桜桃忌〉と呼ぶことを提唱したりしている。
 昭和31年『壁の花』で直木賞を受賞し、あとがきに〈誰かが、読んで呉れるかもしれない──といふ期待だけが、逆運の作者をも、むちうつのだ。そして、その期待のうへにだけ「壁の花」は、明日もまた咲くのである〉と書いた。
 「異端の芸術家」と自を称した官一は昭和54年10月、脳梗塞で倒れた。言葉も話せず、車いす生活に陥った官一を公恵夫人は故郷弘前に連れ帰った。手厚い看護の甲斐もあって徐々に回復、口述筆記による作家生活を送っていったのだが、昭和58年3月1日午前9時10分、急性肺炎のため死去した。



 

 弘前城の南、禅林街と呼ばれる地域の杉並木道に沿って、33もの曹洞宗の寺院が建ち並ぶ寺町に今官一の生家、金平山蘭庭院はある。
 本堂裏、ゆるい坂の参道右先にあった「先祖代々之墓」、裏に昭和七年今官吾と、父の名がある。墓前右側に水子地蔵が浮き彫りされた小さな碑、官一の27回忌と妻公恵の一周忌の板塔婆が立てかけられている。
 初夏の一日、音もなく、風もなく、陽は真宙天に。レイテ沖海戦でただ一艦帰還した戦艦「長門」の乗り組水兵1200人、生き残ったのは僅か30数名、その中の一人であった官一。古刹に生まれ、「存在の空」を一心に書き続けた彼の心眼に映った真実は何であったのか。彼が好んで色紙に書いた言葉がある。
 ——〈花まぼろしの世に在らば 世も幻の花ならん〉。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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