幸田露伴 こうだ・ろはん(1867—1947)


 

本名=幸田成行(こうだ・しげゆき)
慶応3年7月23日(新暦8月22日)—昭和22年7月30日 
享年79歳(瑞峰院露伴成行日俊居士)❖蝸牛忌 
東京都大田区池上1丁目1–1 池上本門寺(日蓮宗)




小説家・随筆家。江戸(東京都)生。逓信省電信修技学校卒。電信技手として北海道余市へ赴任したが、文学を志して帰京。明治22年『露団々』『一刹那』『風流仏』、24年『五重塔』を発表して認められた。ほかに『風流微塵蔵』『天うつ浪』『幻談』などがある。 







 こいつが江戸前の船頭は必ずさういふやうにするので、田舎船頭のせぬことです。身をねぢつて高い處から某處を狙つてシャッと水を掛ける、丁度その時には臍が上を向いてゐます。うまくやるもので、浮世繪好みの意気な姿です。それで吉が今身體を妙にひねつてシャッとかける、身のむきを元に返して、ヒョッと見るといふと、丁度昨日と同し位の暗さになつてゐる時、東の方に昨日と同じやうに葭のやうなものがヒョイヒョイと見える。オヤ、と言つて船頭がそつちの方をヂッと見る、表の間に坐つてゐたお客も、船頭がオヤと言つて彼方の方を見るので、その方を見ると、薄暗くなつてゐる水の中からヒョイヒョイと、昨日と同じやうに竹が出たり引込んだりしまする。ハテ、これはと思つて、合點しかねてゐるといふと、船頭も驚きながら、且那は気が附いたかと思つて見ると、且那も船頭を見る。お互に何だか譯の分らない気持がしてゐるところヘ、今日は少し生暖かい海の夕風が東から吹いて来ました。が、吉は忽ち強がつて、
 「なんでえ、この前の通りのものがそこに出て来る譯はありあしねえ、竿はこつちにあるんだから。ネエ且那、竿はこつちにあるんぢやありませんか。」
 怪を見て怪とせざる勇気で、變なものが見えても「こつちに竿があるんだからね、何でもない」といふ意味を言つたのであつたが、船頭も一寸身を屈めて、竿の方を覗く。客も頭の上の闇を覗く。と、もう暗くなつて苫裏の處だから竿があるかないか殆ど分らない。却つて客は船頭のをかしな顔を見る、船頭は客のをかしな顔を見る。客も船頭も此世でない世界を相手の眼の中から見出したいやうな眼つきに相互に見えた。竿はもとよりそこにあつたが、客は竿を取出して、南無阿彌陀佛、南無阿彌陀佛と言つて海へかへしてしまつた。
                                                                 
 (幻 談)



 

 

 娘の文は露伴との別れを『終焉』にこう書いた。〈仰臥し、左の掌を上にして額に当て、右手は私の裸の右腕にかけ、「いゝかい」と云つた。つめたい手であつた。よく理解できなくて黙つてゐると、重ねて、「おまへはいゝかい」と訊かれた。「はい、よろしうございます」と答へた。
 あの時から私に父の一部分は移され、整へられてあつたやうに思ふ。うそでなく、よしといふ心はすでにもつてゐた。手の平と一緒にうなづいて、「ぢやあおれはもう死んぢやふよ」と何の表情もない、穏かな目であつた。私にも特別な感動も涙も無かつた。別れだと知つた。「はい」と一ト言。別れすらが終つたのであつた〉——。
 3日後の昭和22年7月30日朝、幸田露伴は市川市菅野の寓居で瞑目した。



 

 池上本門寺は花祭りの最中であった。太平洋戦争の東京大空襲によって五重塔や総門などを除き、多くの堂宇を焼失してしまった本門寺は戦後になって徐々に復興されていった。昭和39年に再建された大堂前では、参詣客のために甘茶の奉仕をする婦人たちが華やいだ声を響かせている。
 露伴の描いた谷中の五重塔は不始末によって焼失してしまったが、空襲による焼失を逃れた本門寺の五重塔を背にして「露伴幸田成行墓」は厳かに座してあった。この墓碑は書家西川寧の筆刻により一周忌に建てられたもので、妻幾美、妹延子、娘文ら幸田一族郎党がこの塋域に集められている。墓碑は強い春風に吹き飛ばされて高く、低く、右に、左に、舞い散っていく桜の花びらをうらめしそうに眺めているようだった。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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