古泉千樫 こいずみ・ちかし(1886—1927)


 

本名=古泉幾太郎(こいずみ・いくたろう)
明治19年9月26日—昭和2年8月11日 
享年40歳(顕密院千樫道慧居士)
東京都文京区小石川3丁目14–6 伝通院(浄土宗)



歌人。千葉県生。千葉町(現・千葉市)教員講習所卒。明治37年伊藤左千夫門下に入る。41年上京、島木赤彦、斎藤茂吉、土屋文明らと『アララギ』を支える。大正13年歌誌『日光』に参加、『アララギ』から離れる。15年『青垣会』を結成。歌集『川のほとり』『屋上の土』『青牛集』などがある。







みんなみの嶺岡山の焼くる火のこよひも赤く見えにけるかも 

石ひくくならべる墓に冬日てりひとつひとつ親しくおもほゆ

ふるさとに久にてかへるかなし児の柩いだきて今はも帰る

ふるさとの父のいのちはあらなくに道に一夜をやどりつるかも

雑然と鷺は群れつつおのがじしあなやるせなき姿なりけり

年越えて吾れ病みにけり来り見ればみちみちて光る大川の清さ

たづね来む人たれならむわが室に深くさしたる冬の日のかげ

みなぎらう光のなかに土ふみてわが歩み来ればわが子らみな来つ

雹まじり苗代小田にふる雨のゆゆしくいたく郷土をし思ほゆ



 

 〈あが友の古泉千樫は貧しけれさみだれの中をあゆみゐたりき〉と『アララギ』同人の斎藤茂吉が詠んだ千樫への印象は、その歌の中にもその生涯にも「さびしさ」の消えることはなかったようだ。
 大正13年の夏、弟子でもあった三ヶ島葭子と同じ肺結核で喀血して以来、静養につとめたのだが、健康は優れず、敷いたきりの床で歌を詠んだり、読書をしたりの明け暮れであった。
 門人たちと『青垣会』を結成し、機関誌『青垣』の創刊を目前にしていたのだが、葭子が昭和2年3月26日に亡くなってからは千樫の病状も急速に悪化して、8月11日夜10時35分、妻子や門人に看取られてながら静かに逝った。わずか40年と10か月あまりの短い生涯であった。



 

 没後、3か月ほどたった11月になってようやく門人らによって『青垣』が創刊された。
 遺骨は郷里の千葉県安房郡吉尾村細野(現・鴨川市細野)の古泉家墓地に埋葬されたが、昭和8年11月、七回忌に東京小石川の伝通院墓地にも分骨され、釈迢空の筆を刻した「古泉千樫墓」に妻きよと共に眠っている。夾竹桃の桃色の花が朝の陽に背を向けた桜御影の碑面に、ひとつの夏の日の清々しい明かりとなってゆーらりゆらりと揺れていた。
 ——死去するまでの10年余りを過ごした赤坂青山南町(現・南青山)の近辺にあった青山霊園の散策を楽しんでいたという千樫には「墓」の歌が比較的多いような気がするのは私だけの感傷なのだろうか。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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