小島政二郎 こじま・まさじろう(1894—1994)


 

本名=小島政二郎(こじま・まさじろう) 
明治27年1月31日—平成6年3月24日 
享年100歳 
東京都台東区谷中7丁目5–24 谷中霊園天王寺墓地(天台宗)


 
小説家・随筆家。東京府生。慶應義塾大学卒。芥川龍之介に師事。『三田文学』や鈴木三重吉の『赤い鳥』の編集を手伝い、大正12年『一枚看板』で認められた。昭和10年『人妻椿』などの通俗小説で人気を得た。『眼中の人』『円朝』『芥川龍之介』などがある。







 この誤った考えが、その晩、忽然として粉塵に消し飛んだのだ。私は天来の如く悟ったのだ。小説は芸じゃない。文章も芸じゃない。技術?とんでもない。小説とは、文章とは、筆を持って机に向う以前の——その瞬間までの、作者の全生活の堆積だ。机に向う刹那までの作者の全人格の活動だ。含蓄の発露——それ以外の何物でもない。それ以上に出られるものなら出て見ろ。同時に、それ以下にも——いや、精神が燃えていなければ、それ以下の場合はあり得るだろう。
 さればこそ、婆術家は——「タべを思ひ旦を思ふベし」と芭蕉もいっているのだ。自己の生活を——逃げやすい生活の一瞬一瞬を大切にしなければならないのだ。一本一幕の微に至るまで、愛を以って観察しなければならないのだ。どんな邪悪の行いをも、意を以ってその人間の環境に身を置き、その人間の思想、感情、神経に移入し、その人間の性格に同化し、その人間の欲望を我が欲望として同感し——要するに、愛を以って完全にその人間を作者自身の如く理解しなければならないのだ。
 「ああ——」
 机に向うまでの作者の全人格の活動が芸術であり文章であると悟った瞬間、私は全身を揺すって突き上げて来る喜びに、我れを忘れ、夜中の静寂を破って叫喚の声を口走らずれなかった。  「悟ったぞ」

 私は、大きな声を出せば出せるだけの力を込めて、小さな声でいった。自分自身に云い聞かせたのだ。同時に、長い間だらしのない私を見捨てずに、気長にどこかで私を見守っていてくれた私の運命の星に向って、感謝と感激とを込めて呼び掛けたのだ。

(眼中の人)



 

 『わが古典鑑賞』や『眼中の人』によって優れた批評力、観察力を示した才能や、芥川龍之介に「センシティーブ・プラント」と評された繊細な性格も持ち合わせていたが、戦後は固定観念にとらわれた考えに発した言動や記述によって軋轢が方々で生じ、やがて「毀誉褒貶」ならず「毀」と「貶」だけを呼び込み、長年務めた直木賞選考委員の座から外され、若い頃からの友人佐佐木茂索からも疎んぜられていった。昭和58年6月26日、書斎で倒れた政二郎は大腿部骨折の手術を行ったが、リハビリの痛みに音をあげ、横浜の済生会南部病院六階西病棟二号室が終の棲家となってしまった。平成6年3月24日午後4時1分、10年におよぶ病臥の末、妻視英子の胸の中で小島政二郎は逝った。100歳と52日の命であった。



 

 10年ぶりに帰ってきた我が家の庭に白々と咲く辛夷の花を愛でることもできず、死んだら「無」だとした政二郎の持論によって祭壇、花、戒名も無用と、ごく身内だけの見送りとなった。遺骨は東京・下谷の小さな呉服店「柳河屋」の次男坊として生まれた政二郎のもっぱらの遊び場であった上野のお山を突っ切った先にある谷中霊園の天王寺墓地に埋骨された。明治33年建之の小振りな「小島累代之墓」は同じ塋域内左端に、一族と思われる「稲積家」「古賀家」と並んで古色として建っている。すぐ近くにはかつて政二郎が愛し、『砂金』にも書かれた新橋の芸者のために買ってあげた墓が政二郎の筆と思われるやわらかな筆刻の碑面を翳らせてひっそりと建っている。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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