北原白秋 きたはら・はくしゅう(1885—1942)                    


 

本名=北原隆吉(きたはら・りゅうきち)
明治18年1月25日—昭和17年11月2日 
享年57歳 ❖白秋忌 
東京都府中市多磨町4–628 多磨霊園10区1種2側6番 



詩人。熊本県生。早稲田大学中退。明治39年新詩社に参加、『明星』に詩・短歌を発表。41年吉井勇らと「パンの会」に参加、42年『スバル』を創刊。処女詩集『邪宗門』、大正2年処女歌集『桐の花』を刊行。鈴木三重吉の『赤い鳥』に童謡を次々発表した。詩集『思ひ出』『海豹と雲』などがある。







死なむとすればいよいよに
いのち恋しくなりにけり。
身を野晒になしはてて、
まことの涙いまぞ知る。

人妻ゆえにひとのみち
汚しはてたるわれなれば
とめてとまらぬ煩悶の
罪のやみぢにふみまよふ。

(28歳の時転居した青山の隣家夫人、俊子との恋によって牢獄に繋がれた白秋は、出獄後、俊子の家出を悩み死を決して三崎に向かった時の〈野晒〉の一篇)

 


 

 昭和16年11月2日、三浦半島にある二町谷見桃寺の庭に、ささやかな白秋歌碑ができた。そこは30年前、生き返ろうとして必死だった白秋が、三崎から引き上げてからの一冬を過ごした寺であった。長年の病がかなり進行していて失明一歩手前という時期であったが、白秋はこの除幕式に参列した。
 翌年の11月2日、腎臓病と糖尿病の悪化により午前7時50分、波乱の生涯を閉じた。奇しくも1年前見桃寺に行った日と同じ日であった。俊子と章子、二人の女性に関わり、多くを語り残した白秋。
 〈今日は何日か、十一月二日か、新生だ、新生だ、この日をお前達よく覚えておおき。私の輝かしい記念日だ。新しい出発だ、も少しお開け。‥‥あゝ素晴らしい〉。



 

 死の前年の昭和16年3月、福岡日日新聞の文化賞授賞式参加のため西下。30年ぶりに帰郷して柳川や出生地・熊本の南関なども訪ねた。酒造業を営んで明治34年の大火で生家は焼失していたけれど、穏やかで美しい町が往時のまま息づいていた。
 ——この霊園の広い敷地の奥にある詩人の墓は、「北原白秋墓」と大きくしっかりとした活字体で彫られていた。三木露風と共に「白露時代」と呼ばれる一時代を築いた詩壇の大御所らしく、揺るぎのない姿で座していた。供花の白百合がほんのりと墓前を和ませている。丸い小石が埋め込まれて土饅頭のような頭部を持ったその墓石は、左奥に並ぶ「北原家墓」を柔らかく守っているようであり、拒んでいるようでもあった。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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