北川冬彦 きたがわ・ふゆひこ(1900—1990)                     


 

本名=田畔忠彦(たぐろ・ただひこ)
明治33年6月3日—平成2年4月12日 
享年89歳(文穎院釈冬彦居士)
東京都府中市多磨町4–628 多磨霊園23区2種8側


 
詩人。滋賀県生。東京帝国大学卒。大正13年安西冬衛らと『亜』、昭和3年春山行夫らと『詩と詩論』を創刊。〈新散文詩運動〉を展開。4年詩集『戦争』で評価を得た。戦後は第二次『時間』を創刊、ネオ・リアリズムを提唱。『三半規管喪失』『検温器と花』などがある。






 

 がらんとした税関倉庫のつめたいコンクリートの上で、わたしは一人の男を介抱してゐる。この男は誰れであるのか?わたしはそれを知らない。わたしの腕は、男の一本の脚の上で油のない歯車のやうな軋音をたててゐる。男の他の一本の脚はすでに堕ちて了つた。朝から夜中まで、夜中から朝までわたしはひっきりなしに、男の残つた一本の脚を撫でつづけてゐる。わたしは、何故この男を介抱しなければならないのか?見知らぬ男を、屍のやうな見知らぬ男を、夜が更け月の光が燐のやうに流れても曇った硝子のやうな眼球をかすかに見開いて「絶望、絶望だ、絶望してゐなければ生きてはゐられない--」と呻きやめないこの見知らぬ男を。わたしには、判らない、判らない、判らない、判らない、判らない。

(絶望の歌)

 


 

 映画評論家としてたつきを得る傍ら、雑誌『詩と詩論』の創刊に参加。短詩運動、新散文詩運動を終始一貫して推進したのち、シネ・ポエム論や新叙事詩運動などを展開して、しだいに左傾する。『詩と詩論』を離れ、『詩・現実』を創刊、第二次『時間』を主宰。戦後もネオ・リアリズム論などで精力的に活動した。
 ——25歳の時出版した第一詩集『三半規管喪失』の表紙裏に〈芸術家は非情たろうと望む人間である。彼らは非情さの跡を骨をおって探し求める〉という意味のアポリネールの一節を引用した。そこから彼は出発し、平成2年4月12日89歳で生を全うするまで、それ以外の現実を歩むことはなかったように思える。


 

 〈私は北川冬彦のやうに鬱然とした意志を藏してゐる藝術家を私の周圍に見たことがない。それは彼の詩人的 career を貫いてゐる。それはまた彼の詩の嚴然とした形式を規定してゐる。人々は「意志」の北川冬彦を理解しなければならない。この鍵がなくては遂に彼を理解することは出來ないであらう〉と梶井基次郎が記した北川冬彦の眠るところ、この霊園の西奥、熱い熱い陽の下に「田畔家之墓」があった。
 蜜を求めて何匹かの蜂が飛び交い、向日葵の花は貪欲に陽を導いている。長い間ひきずっていた諸々の不安や怒りも、この聖域には存在しない。——〈よく廻はる。ははははははは。よく廻はる。彼女は魚のやうに腕をくるくる廻はす。ははははは。よく廻はる、廻はる、廻はる〉。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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