川上眉山 かわかみ・びざん(1869—1908)


 

本名=川上 亮(かわかみ・あきら) 
明治2年3月5日(新暦4月16日)—明治41年6月15日 
享年39歳(芳文院眉山清亮居士)
東京都文京区本駒込3丁目19–17 吉祥寺(曹洞宗)



小説家。大阪府生。東京帝国大学中退。大学時代に尾崎紅葉を知り硯友社に参加。明治23年小説『墨染桜』を発表。次いで『柴車』『青嵐』『白藤』『賤機』などを発表。その後は〈硯友社〉を離れ『文学界』同人たちと交友。30年紀行文『ふところ日記』は好評を得たが、のち自殺。『神出鬼没』『新家庭』などがある。






 

 東瀛に物あり。嘗て名づけられて玉卿といふ。化して眉山となれる時、愚なる事太郎兵衛殿の黄牛の如し。三年この方物狂はしくも哲學を疑ひ宗教を疑ひ、世を疑ひ我を疑ひたりし果は此肉と骨とを粉韲せん事を思ひ、遂には了々の眞を見出し得ざる疳癪まぎれ、目に障るべき凡ての物を無法無徹に打破し盡して強ひて快を呼ばんとしたる去年十二月末つかたなりけむ、突如として一道の光明に接したる其時此時、心機がらりと一轉して思知らず十幾年ぶりの嬉しさに酔ひたりし其心を以て冀はくは世に臨まんとするに、猶暫しの骨休めをとのみ又も旅せん事を思立ぬる三十一日の夜、おもひよらず二葉亭子の都門を出でんとして立寄れるに曾して好き道連れを得たるを喜び、慌たゞしくく支度して直ちに牛込の停車場に向ふ。大つごもりの事なれば大路を埋めて沸くが如き群集の行通、空も酔ふべき燈火の星月夜、肩と肩との間を馳せて車上ひそかに我が市民のよき年を迎へん事を念じつゝ漸くにして停車場に着きたるは八時に近き頃なりき。
                                                       
  (ふところ日記)

 


 

 明治41年6月15日の朝、東京・牛込天神町(現・新宿区天神町)の川上眉山の書斎は血に染まっていた。そこには血溜まりの中に俯伏となったままの青ざめた眉山がいた。義兄が住職をする浅草の万隆寺に転居するための準備に前日から取り組み、平生と変わりなく床についた眉山が、突然剃刀でのどを切って果てたのであった。
 言文一致運動から始まった眉山の生きた明治時代の文学は写実主義、ロマン主義、擬古典主義、自然主義、はたまた反自然主義などと雨後の竹の子のように次から次へと展開していった。それらの運動に翻弄されつづけた眉山の自殺の原因は生活難、精神錯乱など憶測が乱れ飛んだが、友人の細川風谷氏は「夢幻的な自殺」であったと断言した。



 

 硯友社同人として文壇にでた眉山は、その後文学観の違いからたもとを分かち、反硯友社の作家となった。
 東京の文京区本駒込にある諏訪山吉祥寺、銀杏並木の参道脇に位置した川上家の墓所入口左にある「眉山川上亮墓」は硯友社同人の江見水蔭、石橋思案らの友情によって建てられたものであった。人間悲劇の原因を社会に位置づけた「観念小説」を書いて、自らの進退をもがんじがらめにして自死した眉山の悲劇がここに納まってある。八百屋お七と吉三の比翼塚、二宮尊徳、榎本武揚の墓などもあるこの大寺の、殺風景な塋域に身を置いた私に「夢幻的」な感情はついぞ沸き上がらなかった。
 ——〈自由の絶対は死だ〉。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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