金子洋文 かねこ・ようぶん(1894—1985)


 

本名=金子吉太郎(かねこ・きちたろう)
明治27年4月8日—昭和60年3月21日 
享年90歳 
秋田県秋田市土崎中央3丁目1–23 満船寺(浄土宗)




小説家・劇作家。秋田県生。秋田県立工業学校(現・県立工業高等学校)卒。大正6年武者小路実篤の書生として寄寓。10年『種蒔く人』の創刊に参加。12年『地獄』を雑誌『解放』に発表、プロレタリア作家として認められた。13年『文藝戦線』創刊に参加。ほかに『狐』『牝鶏』『飛ぶ唄』などがある。






 

 右手に轟く地獄の爆音をきゝながら、平吉は坂途をのぼった。その音響は、彼の胸に壮快な気分を湧きたたせた。彼は冷水を浴びるやうな涼味を全身に感じた。
 坂の中途で彼は立止った。そこから、松林と杉林の切れ目から、彼は地獄の白霧を眺めることが出来た。
 何といふ壮烈な眺めだ。ことごとく緑黒色にうづくまってゐる小山と小山の間から、渦をまいた白い蒸気が立上ってゐた。それにタ色が反映して、恰も火煙を噴出してゐるやうに見えるのであった。
 平吉はそれを眤っと眺めてゐる内に、形容の出来ない感動が内に起って、涙が眼にあふれてくることを感じた。
 彼は、暫くの間立像のやうに立止ってゐた。彼は屢々見たことのある、地獄の状景を思ひ浮べた。あの壮観をきはめた熱湯の噴出、一切のものを破壊しないでは止まない熾烈な熱湯の力。——あの激怒、あの反抗こそ、今この地上に横はる一切の醜悪と禍根を除くものだ。

 『俺達百姓を救ふものはたゞ革命しかない』と、思ふと、彼は最早そこに静止してゐることが出来なかった。彼は村のことを考へた。百姓に結果を報告する筈の友治のことが気になり出した、彼は又途を急いだ。

(地獄)

 


 

 大正6年、千葉県我孫子町(現・我孫子市)の武者小路実篤邸に書生として寄寓して創作に励むかたわら、近隣に住む志賀直哉や柳宗悦ら『白樺』同人たちとの交わりによって、思想的にも人間的にも大きな影響を受けた金子洋文。25歳ころからは本格的に創作活動に入り、10年には雑誌『種蒔く人』を故郷秋田・土崎港町で創刊した。その後、『文藝戦線』『文戦』などで激しい官憲の弾圧のもとに於いてもプロレタリア作家としての活動を続け、また劇作や脚色・演出なども手がけた。戦後は参議院議員としても活躍したのだったが、昭和60年3月21日午後零時37分、老衰のため東京・杉並区西荻の自宅で90年の生涯を閉じた。



 

 

 横木を二本の門柱の上方に貫き渡した屋根を持たない朱塗りの冠木門の前に、昭和63年3月に「種蒔く人顕彰会」の建てた「種蒔く人金子洋文先生墓所」の石柱が眼につく。門を入ると左右にたくさんの墓石が並び、厳かな青銅の菩薩像が建っている。金子洋文が工業学校を卒業して三年ばかり小学校の代用教員をしていた頃に下宿していたという満船寺。灰色によどんだ空を背景にして建つ「南無阿彌陀佛」と深く彫り込まれた金子家の墓に、今朝から絶え間なく降り続く晩秋の雨は、北の海をわたり運河を遡ってきた冷えきった風と一緒になって、本堂前の黒々と沈んだ墓石群の濡れそぼる風景を強く描き出していた。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


墓所一覧表


文学散歩 :住まいの軌跡


記載事項の訂正・追加


 

 

 

 

 

 

ご感想をお聞かせ下さい


作家INDEX

   
 
 
   
 
   
       
   
           

 

   


   海音寺潮五郎

   開高 健

   葛西善蔵

   梶井基次郎

   柏原兵三

   片岡鉄兵

   片山広子

   加藤周一

   加藤楸邨

   角川源義

   金子薫園

   金子兜太

   金子みすゞ

   金子光晴

   金子洋文

   加能作次郎

   上司小剣

   嘉村磯多

   亀井勝一郎

   香山 滋

   唐木順三

   河井酔茗

   川上三太郎

   河上徹太郎

   河上 肇

   川上眉山

   河口慧海

   川口松太郎

   川崎長太郎

   川路柳虹

   川田 順

   河野裕子

   川端康成

   河東碧梧桐

   管野須賀子

   上林 暁

   蒲原有明