河東碧梧桐 かわひがし・へきごとう(1873—1937)


 

本名=河東秉五郎(かわひがし・へいごろう)
明治6年2月26日—昭和12年2月1日 
享年63歳(碧梧桐居士)❖碧梧桐忌 
東京都台東区三ノ輪1丁目27–3 梅林寺(曹洞宗)



俳人。愛媛県生。第二高等学校(現・東北大学)中退。中学時代から正岡子規に兄事、高浜虚子とともに子規門の双璧。子規没後、新聞「日本」の俳句欄の選者を子規より継承。明治39年全国俳句行脚を開始、新傾向俳句運動を薦める。大正4年『海紅』を創刊、自由律俳句を示す。『八年間』『三千里』『碧悟桐句集』などがある。






 

赤い椿白い椿と落ちにけり                                       

足もとにヒヨコ来鳴くや霧の中                  

虹のごと山夜明りす旱年                                

水仙に水させば我明かなり                                        

葱を洗ひ上げて夕日のお前ら
                                      
眠り蚕の名残の数朝まだきかぞへゐる                                  

汐のよい船脚を瀬戸の鴎は鴎づれ

 


 

 高浜虚子とは伊予尋常中学校(現・愛媛県立松山東高校)からの友人であり、正岡子規門下の双璧と呼ばれていた。俳句では伝統的な五七五調を擁護する虚子と、伝統的な手法に捕らわれないとした碧梧桐は意見を異にしてそれぞれに独自の道を歩んできた。昭和8年3月25日、還暦祝賀会で句作への情熱が失せたことと、対立する虚子への抗議を含めてとの事だと仄聞する突然の引退宣言をした。
 ——12年1月22日、都下淀橋区戸塚の新居において開かれた祝いの宴の後、碧梧桐は腸チフスを発病。30日、豊多摩病院に入院したのだが、2月1日午後11時14分、敗血症を併発して死去。翌2日は一面の銀世界、視界をふさぐほどの吹き降りの天候も次第に霙混じりとなっていった。 



 

 かっての吉原遊郭にもほど近い曹洞宗のこの寺を梅林寺という。碧梧桐の告別式が行われた去る60余年前の雪の降りやんだある晴れた日、本堂では長来の門人であった導師六花和尚の涙声の香偈が吟じられていた。庭の梅の木は、春を待つのももどかしくはやくも四、五輪の花を付け始めていた。月日は流れ、いま本堂前に建つ自筆刻の「碧悟桐墓」に対面していると、訳もなく悠揚とした温かさが感じられるのは、寒々しい季節を追いやった春爛漫の気分に惑されたからだけではないだろう。さわやかな安住の碑だ。この寺には碧悟桐の分骨がおさめられているのだが、父母の眠る郷里松山の宝塔寺にも墓があると聞いている。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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