加藤周一 かとう・しゅういち(1919—2008)


 

本名=加藤周一(かとう・しゅういち)
大正8年9月19日—平成20年12月5日 
享年89歳(ルカ) 
東京都東村山市萩山町1丁目16–1 小平霊園33区




評論家。東京府生。東京帝国大学卒。文学運動「マチネ・ポエティク」同人。昭和22年中村真一郎、福永武彦との共著『一九四六 文学的考察』を発表。世界各国の大学で日本文学、美術を講じながら評論活動を行い、55年『日本文学史序説』で大仏次郎賞を受ける。ほかに小説『ある晴れた日に』、評論『文学と現実』、回想録『羊の歌』などがある。







 

 私は彼を理解してはいなかったし、おそらく今でも理解していないのかもしれない。私に理解することができたのは、ただ彼と私との間にあったつながりだけだろうと思う。そのことは彼の死後、私にとっていよいよあきらかになった。一個の石がそこにあるように、たしかに、一個のつながりがそこにあった。人生はそれ以外の何であり得るのか。彼の知らなかった国で、私は今この文章を書いている。私の小さな部屋は、明るく暖かく、静かで、机上には彼の書いた本が置いてある。窓の外には蕭条たる秋と、灰色の空がある。突然扉を叩いて彼が入って来ることはないだろうか。「やあ、しばらく、すっかり落ちついたようだね」。しかし彼が入って来ることはありえないし、彼にもう一度会うことは決してできない。そういう考えは、私に地団駄を踏ませる。私は話をしたいとは思わない。ただもう一度あのながい髪と青白い顔をみたい。それさえできないということ、彼に電話をかけることさえできないというほど馬鹿げたことが、一体あり得るだろうか。しかしどんな馬鹿げたこともあり得るし、あり得るばかりでなく事実になった、とりかえしがつかず、測り難く、全く理解し難い事実に。
 彼の死後、しばらくして私は再び東京を離れた。その夏、「安保反対」に起ちあがった大衆はたしかに私を鼓舞した。しかし彼の死は、私のなかで何ものかを変えていた。私はそのときまで、どこに暮し、どこで仕事をするかということに、強くこだわっていたが、そのときから、そういうことは二次的な条件にすぎず、どこにいても、できることはできるだろうと、考えるようになった。新しい職が太平洋の彼岸にあり、私はその仕事を引きうけて、単身羽田から出発した。旅客機の窓から東京の街の灯が忽ち遠ざかり、やがて夜の海の深い闇のなかに消えて行くのを見つめながら、私にはどういう感傷も、心残りもなかった……。

(羊の歌・死別)

 


 

 その年の初め頃から体調に不安を覚えていたようであったが、5月に受けた精密検査で宣告された「胃がん」という診断にも〈高齢でもあるし、悪性でもないし、病状はそれほど速くすすむことはないだろう〉、と楽観して『鷗外・茂吉・杢太郎』執筆に専念していた。しかし、病状は悪化の一途をたどってゆき、余命幾ばくかと悟った加藤は〈宇宙には果てがあり、その先がどうなっているかはだれにも分からない。私は無宗教者であるが、(中略)母はカトリックだったし、妹もカトリックである。葬儀は死んだ人のためのものでなく、生きている人のためのものである。(私が無宗教では)妹たちも困るだろうから…〉と、8月19日、カトリック上野毛教会で受洗。妻矢島翠の希望によって「ルカ」という洗礼名も与えられたが、平成20年12月5日午後2時5分、「知の巨人」と呼ばれた加藤周一は、東京・世田谷の有隣病院で多臓器不全のため死去した。



 

 風が吹きすさぶ広大な霊園、いっさいの色を捨て去った空が広がっている。無数の落葉がからみあった枯芝の幾筋にも横型洋風墓が向き合って並んでいる。2009年8月15日、暑く晴れた日に埋葬された「加藤」とのみシンプルに刻された黒御影の碑。裏面に母と父の洗礼名と俗名「マリア・オーガスチン 加藤ヲリ子、ヨゼフ 加藤信一」に並んで「ルカ 加藤周一」とある。「これだけあれば退屈しないと思って」と、妻矢島翠が選んで葬儀の際、柩に収められたフランス語版聖書、ドイツ語版カント『実践理性批判』、岩波文庫版『論語』、〈人生の朝と夕暮れに本質的なちがいがあるとすれば、それは青年の後に老年が来るのに対し、老年の後には死が来るということだけであろう。しかし語ることができるのは、生であって死ではない。〉などと呟きながら、それら3冊の本を飽くことなく読み返しているにちがいない。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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