葛西善蔵 かさい・ぜんぞう(1887—1928)


 

本名=葛西善蔵(かさい・ぜんぞう)
明治20年1月16日—昭和3年7月23日 
享年41歳 (藝術院善巧酒仙居士)
神奈川県鎌倉市山ノ内8 建長寺回春院(臨済宗)
青森県弘前市新寺町21 徳増寺(浄土宗)



小説家。青森県生。東洋大学中退。徳田秋声に師事。大正元年処女作『哀しき父』を発表。7年『子をつれて』を『早稲田文学』に発表し、認められる。『不能者』『馬糞石』『贋物』等を続けて刊行。そのほとんどが私小説であった。『椎の若葉『湖畔日記』などがある。



 建長寺回春院

 青森県弘前市・徳増寺


 

 ぽつねんと机の前に坐り、あれやこれやと考へて、思ひふさぐ時、目分を慰めてくれ、思ひを引立ててくれるものは、ザラな顔見知合ひの人間よりか、窓の外の樹木---殊にこのごろの椎の木の日を浴び、光りに戯れてゐるやうな若葉ほど、自分の胸に安らかさとカを与へてくれるものはない。鎌倉行き、売る、売り物、三題話のやうな各々の生活---土地を売つた以上は郷里の妻子のところに帰るほかない。人間墳墓の地を忘れてはならない。椎の若葉に光りあれ、僕は何処に光りと熱とを求めてさまよふべきなんだらうか。我輩の葉は最早朽ちかけてゐるのだが、親愛なる椎の若葉よ、君の光りの幾部分かを僕に恵め。

(椎の若葉)

 


 

 貧困と宿痾の喘息、それにも増して厄介な家庭をとりまく問題は酒にまぎらわせ、反発と無頼が善蔵の作品を生み出していった。
 「人生苦のあらゆる悲惨」と銘打たれた『葛西善蔵全集』の広告が新聞に掲載されたのは昭和3年7月23日のことであった。〈俺は忍路(おしょろ)高嶋を唄はう。忍路高嶋は俺の少年の夢だ。俺は少年の夢を抱いて忍路高嶋を放浪したのだ。俺の胸は火であつた。けれども俺は凍え死なうとした。がもし俺があの当時に死んでゐて呉れたら……あゝ少年の夢よ!(悪魔)〉——。
 破滅に自己を突進させていった破天荒な放浪作家の「少年の夢」は、昭和3年7月23日夜半、東京・世田谷三宿の寓居で、多年の肺結核により燃え尽きてしまった。



 

 鎌倉五山の第一である臨済宗建長寺の塔頭、宝珠院に居住していたのは、関東大震災によって寺が崩壊するまでのわずか4年ほどの間であったのだが、半僧坊にむかって疎水沿いの小径を曲がった先にある同じ塔頭のひとつ、回春院の墓地に、郷里青森県弘前市の葛西家菩提寺である徳増寺の墓から分骨して建てられた「葛西善蔵之墓」はあった。
 宝珠院の庫裏に寄宿当時、食事の世話をしてくれた茶店招寿軒の娘の浅見ハナ(のち同棲)も平成4年に92歳で亡くなりこの墓に葬られている。それにしても何よりまず目についたのは「藝術院善巧酒仙居士」の文字であった。何ともユーモアに溢れた戒名ではないか。
 ——〈生活の破産、人間の破産、そこから僕の芸術生活が始まる〉。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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