海音寺潮五郎 かいおんじ・ちょうごろう(1901—1977)


 

本名=末富東作(すえとみ・とうさく)
明治34年3月13日—昭和52年12月1日 
享年七六歳 
東京都杉並区永福1丁目8–1 築地本願寺別院和田堀廟所(浄土真宗)



小説家。鹿児島県生。國學院大學高等師範部(現・國學院大學)卒。指宿中学校に国漢の教師として赴任。昭和4年『サンデー毎日』の懸賞小説に応募した『うたかた草子』が入選。9年以降創作に専念。『天正女合戦』で11年度直木賞受賞。14年『文学建設』を創刊。『平将門』『武将列伝』『西郷隆盛』『天と地と』などがある。






 

 古来、学者の多くは、義経の悲劇はその無思慮に由来する自業自得である、彼は慎重で、謙虚で、秋毫も頼朝の意にもとらぬようにすべきであったと説く。笑うべきである。生きた人間をシンコ細工と同様にたやすくこねなおしのきくもののように考えている。自信と自負をもちながら、驕慢でなく、独断専行せず、自己を拘束しないなどという境地は、修養に修養を重ねて、五十歳以上になって得られれば幸い、しかも多くの場合、すでにもう天才ではなくなっているのだ。義経がもしあの若さで処世術など心掛けて、常に兢々たる態度などでいたら、とうていあのような天才の発揮は出来なかったろう。あのようであったればこそ、あのはなやかな功業をなしとげたのだ。義経自身の気持はどうであろうとも、彼は最善の生き方をしたと、ぼくは思うのである。彼が攻治上の才幹を持たなかったことは言うまでもない。

(『武将列伝』源義経)

 


 

 歴史小説、特に史伝物を数多く書き、史伝文学の復興に対する功績が大であった。そして、そのことが後年、菊池寛賞受賞の理由ともなるのだが、海音寺潮五郎には、同郷薩摩の英雄「西郷隆盛」を描いた作品が多数ある。〈西郷のことが好きで好きでたまらないから〉というのが心底にあったからに他ならないのだが、まさにその風貌に似て、大躯剛毅な人であった。
 昭和44年4月1日、毎日新聞紙上に突然の引退宣言を発表して世間を驚かせたが、これは念願の長編史伝『西郷隆盛』執筆に専念するためであった。
 ——52年12月1日午後3時45分、栃木県黒磯の菅間病院で死去。脳出血で倒れ、二週間、意識の回復がないままの薩摩隼人の死によって『西郷隆盛』は未完に終わった。



 

 海音寺潮五郎は史実を忠実なぞって再現する手法で多くの作品を描いてきた。それ故に同じ文学観を持つ司馬遼太郎を高く評価し、直木賞を強力に推したのであったが、反対に同じ歴史物でもフィクション色の強い池波正太郎に対しては、とてつもない酷評を与えている。謹厳実直な人柄であったのだろう。
 ——この塋域にある、彫刻家半田富久設計による墓碑は、閉じられた二枚の襖を型どった石板左上隅に、花柄と自筆の「末富家」を刻し、小石を敷き詰めた舞台に建てられている。〈墓場まで仕事は持ち込みたくない。死んだらゆっくり眠らせてくれ〉と注文したというが、その墓が甲州街道に背面し、首都高速道路の騒音を昼夜間断なく枕頭に聞く事になるなどと、まさか思ってもいなかっただろう。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


墓所一覧表


文学散歩 :住まいの軌跡


記載事項の訂正・追加


 

 

 

 

 

ご感想をお聞かせ下さい


作家INDEX

   
 
 
   
 
   
       
   
           

 

   


   海音寺潮五郎

   開高 健

   葛西善蔵

   梶井基次郎

   柏原兵三

   片岡鉄兵

   片山広子

   加藤周一

   加藤楸邨

   角川源義

   金子薫園

   金子兜太

   金子みすゞ

   金子光晴

   金子洋文

   加能作次郎

   上司小剣

   嘉村磯多

   亀井勝一郎

   香山 滋

   唐木順三

   河井酔茗

   川上三太郎

   河上徹太郎

   河上 肇

   川上眉山

   河口慧海

   川口松太郎

   川崎長太郎

   川路柳虹

   川田 順

   河野裕子

   川端康成

   河東碧梧桐

   管野須賀子

   上林 暁

   蒲原有明