本名=藤村 操(ふじむら・みさお)
明治19年7月20日—明治36年5月22日
享年16歳(松陰以白居士)
東京都港区南青山2丁目32―2 青山霊園1種イ1号4側7番
旧制第一高等学校の学生。北海道生。旧制第一高等学校在学。明治35年第一高等学校に入学。翌36年5月「万有の真相は唯一言にして悉す、曰く不可解、我この恨みを懐いて煩悶終に死を決す」との遺書・巖頭之感を日光華厳の滝上の樹幹に残して自殺した。東洋史学者・那珂通世の甥で、級友に安倍能成らがいた。
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悠々たる哉天壌、遼々たる哉古今、五尺の小軀を以て此大をはからむとす。ホレーショの哲学竟に何等のオーソリチーを価するものぞ。万有の真相は唯一言にして悉す、日く「不可解。」 我この恨を懐て煩悶終に死を決す。既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。始めて知る大なる悲観は大なる楽観に一致するを。
(巌頭之感)
明治36年5月22日早朝、遺書・巖頭之感を残して日光華厳の滝に身を投じた藤村操。叔父の東洋史学者・那珂通世が痛哭して記している。〈樹の傍には、傘の外に、大なる硯と墨と太き唐筆と大なるナイフとあり。此等の器具は、家を出づる時予め用意したりと見ゆ。その運筆の優美なるを見れば、巌頭に立てる時心中の従容として安泰なることは察するに余りあり。(中略)巌角に攀じて見下せば、六十丈の懸泉は、 巌石を砕いて雷の如くに轟き、滝壺は、暴風雨の如き飛沫に蔽はれて見えず。かくて身の丈五尺 五寸余、眉目清秀にして、頰に微紅を帯び、平生孝友にして、一家の幸福の中心と思はれし未来 多望の好羣は、去て返らず、消えて痕なし。嗚呼哀いかな。〉
明治36年6月4日午後、遺体不明のまま谷中共葬墓地の斎場で招魂式が挙行された。遺体が滝壺から発見されたのは死後42日目の7月3日のことであったが、翌日に引き揚げられ遺体は5日夜、日光で荼毘に付され、7月12日、青山霊園の藤村家墓地に埋葬された。広々とした霊園、五月晴れの清々しい空の下に藤村家の墓々が並んでいる。父朕、母晴、弟朗らの墓に挟まれた「藤村家祖先墓」、そして「巌頭之感」を刻んだ記念碑が右手に見え、隣接した那珂家墓域には通世の墓碑も見える。操の自殺によって起こった波紋によって後追い自殺者が続出し、周辺の学生に大きな影響を与えた。自殺の原因は哲学的な悩みによる説、失恋による説などさまざまに論じられてきたが、こんな青空の下では虚しくも思える。
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