福沢諭吉 ふくざわ・ゆきち(1835—1901)


 

本名=福沢諭吉(ふくざわ・ゆきち)
天保5年12月12日(新暦1月10日)—明治34年2月3日 
享年66歳(大観院独立自尊居士)❖雪池忌 
東京都港区元麻布1丁目6–21 善福寺(浄土真宗)



思想家・教育家。摂津国(大阪府)生。大坂適塾。万延元年咸臨丸により渡米。文久2年幕府の外交使節に翻訳方として渡欧。慶応2年『西洋事情』刊行。4年蘭学塾を慶應義塾と名付け、啓蒙活動を展開する。著書に『学問のすゝめ』『世界国づくし』『文明論之概略』などがある。






  

 宇宙の間に我地球の存在するは大海に浮べる芥子の一粒と云ふも中々おろかなり。吾々の名づけて人間と稱する動物は、此芥子粒の上に生れ又死するものにして、生れて其生るゝ所以を知らず、死して其死する所以を知らず、由て來る所を知らず、去て往く所を知らず、五、六尺の身體僅に百年の壽命も得難し、塵の如く埃の如く、溜水に浮沈する孑孑の如し。蜉雖蝣は朝に生れてタに死すと云ふと雖も、人間の壽命に較べて差したる相違にあらず。蚤と蟻と丈くらベしても大象の眼より見れば大小なく、一秒時の遅速を争ふも百年の勘定の上には論ずるに足らず。左れぱ宇宙無邊の考を以て獨り自から觀ずれば、日月も小なり地球も徴なり。況して人間の如き、無智無力見る影もなき蛆蟲同様の小動物にして、石火電光の瞬間、偶然この世に呼吸眠食し、喜怒哀楽の一夢中、忽ち消えて痕なきのみ。然るに彼の凡俗の俗世界に、、貴賤貧冨榮枯盛衰などゝて、孜々経営して心身を勞する其有様は、庭に塚築く蟻の群集が驟雨の襲ひ來るを知らざるが如く、夏の青草に飜々たるばったが俄に秋風の塞きに驚くが如く、可笑しくも亦淺ましき次第なれども、既に世界に生れ出たる上は蛆蟲ながらも相應の覚悟なきを得ず。
                                                               
(福翁百話)



 

 明治5年に初編刊行された〈天は人の上に人を造らずと云へり。〉ではじまる『学問のすゝめ』は、空前の売れ行きを示した。
 政府の登用を固辞し、「慶應義塾」を軸とした教育、著述と多彩な啓蒙活動に専念したが、明治31年9月26日、福沢は脳出血を病み、それ以後自ら筆を執ることはなかった。
 明治34年1月25日、脳出血が再発し、2月3日午後10時50分、永眠。諭吉の遺言によって〈一切の香奠及び造華生花の類を固く辞し、苟且にも虚儀虚飾に流れず、ただ清浄と厳粛を旨としたる〉葬列の様子を読売新聞は、〈総べて質素にして然も荘厳なりしは一万有余の会葬者が悉く徒歩せし事とともに人々の一層感動せし処なりき〉と伝えている。当時の〈世間一般の葬儀とは大に観を異にするもの〉であった。



 

 諭吉の葬儀は菩提寺の善福寺で執り行われた。生前散歩の途に、上大崎の常光寺周辺の眺望を気に入り、「死んだらここに」と手に入れた浄土宗の常光寺墓地に土葬された。
 昭和52年、常光寺本堂建設の建設資金や維持管理のため発足した護持会会則によって改宗か移転かの決断を迫られ、墓を掘り返すことになった。白骨化することなくミイラ化した遺体は荼毘に付され、錦夫人の遺骨や墓石とともに元麻布にある浄土真宗の善福寺に改葬された。
 「福沢諭吉墓」は、開山堂前の真向かいにひっしと建ち、遥かな年を経て、うねるような深い襞を持つ大公孫樹と談論するかのように面対している。
 常光寺には、慶應義塾記念碑として夫妻の柩の上に埋められてあった銘板をモチーフに、谷口吉郎設計の碑が建てられている。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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