本名=福永武彦(ふくなが・たけひこ)
大正7年3月19日—昭和54年8月13日
没年61歳
東京都豊島区南池袋4丁目25–1 雑司ヶ谷霊園1種12号12側
小説家・詩人。福岡県生。東京帝国大学卒。作家池澤夏樹の父。堀辰雄に師事。昭和22年中村真一郎、加藤周一と共に評論集『1946文学的考察』を刊行し、文学活動をはじめた。29年『草の花』で作家としての地位を確立。ほかに『風土』『廃市』『海市』『死の島』などがある。

過去から現在を導き出すことは易しい、昨日の出来ごとから今日の絶望を導き出すことは自然の数だ。しかしその反対に、未来から現在を割り出すことはむつかしいだろう。未来の窮極は死だ、僕はすべてを死から割り出し、死者の眼から物を見て生きよう。死者はその未来に虚無をしか持たず、従ってそのぎりぎりの点から現在を見れば、一日といえども、一瞬といえども、尊いだろう。死者の眼というのは死んだ眼ということではない、空が死に、海が死んで見える眼ではない、人が死の瞬間に於て、ああ自分はよく生きたと思い、もう一切の欲望も空しくなって過去の日々をふりかえる、そういう眼だ。そういう眼で、未来の源から現在を顧るのだ。しかしその未来は明日に尽きるかもしれないし、今この一瞬に尽きるかもしれないのだ。その視点に立って見れば、今日の絶望も或いは明日の僕をつくるのにプラスするものかもしれぬ、そこにはまだまだ可能性がある、今の涙も次の瞬間の悦びとなるかもしれぬ、それは要するに、人間として生き終った最後の時に決定することだ。僕はそれをあらかじめ見よう。死者の眼に映る過去のように、未来に於て現在を見よう。
(風土)
中村真一郎、加藤周一らと可能性を追求した「マチネ・ポエティク」の音韻定型詩は受け入れられず、戦後、三人で〈第一次戦後派〉の作家たちとは離れた位置で文学活動をしていた。まもなく『草の花』によって作家的地位を得ることになる。
しかし履歴書よりも立派な病歴と言われたほど、病に病を重ね、病院暮らしが生活の一部にもなっていた福永武彦は、むしろその病を恵みとして〈死者の眼〉から現在を〈測量し、常にぎりぎりまで自分の可能性を試みた〉。
昭和54年8月、信濃追分で吐血、佐久総合病院で胃の切除手術後、13日午前5時25分、脳出血のため死去した。死後、キリスト教の病床洗礼を2年前に受けていたことがあきらかにされた。
没後20年を経てようやく、信濃追分の山荘に置かれていた遺骨が納められた墓は、武彦の小学生から中学生時代にかけてのホームグラウンドであったこの雑司ヶ谷の霊園にある。前日の大雨に洗い出された真新しい「福永家之墓」が眩しく輝き、夏草も生き生きと葉を広げている。左側には「跡もなき 波ゆく舟に あらねども 風ぞ むかしの かたみなりける」の碑がある。 前日夕刻、大雨の最中に訪れたときは碑面の文字も定かに判別できず、今日改めて出直したのであったが、なんと明るく清々しい塋域であることか。作家の作品群に通ずる「死」の影を微塵も感じさせることがなかった。——〈よく生きられた生涯は、たとえ短いものであっても、人々の追憶の中に再びその生涯を生きるだろう〉。
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