本名=福士幸次郎(ふくし・こうじろう)
明治22年11月5日—昭和21年10月11日
享年56歳(廓然院幸誉大悟居士)
東京都江東区三好1丁目5–12 済生院雙樹寺(浄土宗)
詩人。青森県生。国民英学会卒。佐藤紅緑に師事。明治42年「自然と印象」に処女作を発表。大正3年に口語自由詩の先駆、第一詩集『太陽の子』を刊行。のち評論に転じ、昭和5年『日本音数律論』を発表。『郷土と観念』『原日本考』などがある。

自分は太陽の子である
未だ燃えるだけ燃えたことのない太陽の子である
今口火をつけられてゐる
そろそろ燻りかけてゐる
ああこの煙りが焔になる
自分はまつぴるまのあかるい幻想にせめられて止まないのだ
明るい白光の原つぱである
ひかり充ちた都曾のまんなかである
嶺にはづかしさうに純白な雪が輝く山脈である
自分はこの幻想にせめられて
今燻りつつあるのだ
黒いむせぼつたい重い烟りを吐きつつあるのだ
ああひかりある世界よ
ひかりある空中よ
ああひかりある人間よ
總身眼のごとき人よ
總身象牙彫のごとき人よ
怜悧で健康で力あふるる人よ
自分は暗い水ぼつたいじめじめした所から産聲をあげたけれども
自分は太陽の子である
燃えることを憧れてやまない太陽の子である
(自分は太陽の子である)
福士幸次郎について〈彼は長靴のように痩身長躯で、屋根裏の部屋に寝ころびながら、朝から晩まで人生を議論している〉と萩原朔太郎は評している。
人生を凝視し、〈あらゆる此の人生の中に生きてゐる人間の奥底のみじめさ〉に涙して〈見知らぬ人の中に這入つて算盤を彈き、スコツプを握り、生きるか死ぬかの瀬戸際を渡り〉放浪に身を任せた時、あるいは〈如何なる奈落の底へ落ちてもあの燃え上る空中の偉大崇嚴な火の圓球を憧れてやまない〉と『太陽の子』における生命の輝きを歌った時。昭和21年10月のこの日、病を得て兄の疎開先である館山北条海岸で静養中、悲しくも迎えた最期の時、時々における人生の議論。その結果は如何であったのか。
昭和21年10月11日午前零時半、太陽の子・福士幸次郎は死んだ。
師佐藤紅緑が勘当した長男で後の詩人サトウハチローを引き取り面倒をみたことがあるということ、没年月日が私の生年月日と同一であったという以外に、私はこの詩人について多くを知らない。
深川の清澄公園や芭蕉庵に近いこの寺の門内に「詩人福士幸次郎の墓」という真新しい石碑が建っていたが、実墓は道を隔てた墓地の一角に「福士家之墓」と刻まれてあった。炎天下に遮るものもなく無彩色の風景として固まった空間。
——〈ああ春日よ、春日よ、 ああ死よ、睡眠よ、 君達の虚心の輝きは、 わたしの上に情熱の浄かな行手を示し、 おおそしてそして、此の名もない路傍の墓石は、墓石は、 わたしの生のため深い慰めを與へる・・・〉。
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