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知っていても何の得にもならない、歌合戦に出場しなかった女性アイドル。
歌手名 | 出場したかもしれない年 | 予想された歌唱曲 |
---|---|---|
浅田美代子 | 昭和48年 | 赤い風船 |
伊藤つかさ | 昭和57年 | 夕暮れ物語 |
松本伊代 | 昭和57年 | センチメンタル・ジャーニー |
わらべ | 昭和58年 59年 |
めだかの兄弟 もしも明日が |
菊池桃子 | 昭和60年 | 卒業 |
おニャン子クラブ | 昭和61年 62年 |
セーラー服を脱がさないで 恋はくえすちょん |
新田恵理 | 昭和61年 | 冬のオペラグラス |
河合その子 | 昭和61年 | 青いスタスィオン |
国生さゆり | 昭和61年 | バレンタイン・キッス |
うしろ指さされ組 | 昭和61年 | バナナの涙 |
本田美奈子 | 昭和61年 62年 |
1986年のマリリン Oneway Generation |
南野陽子 | 昭和62年 63年 |
話しかけたかった 秋からもそばにいて |
浅香唯 | 昭和63年 |
C-Girl |
観月ありさ | 平成4年 5年 |
TOO SHY SHY BOY! Happy Wake Up! |
高橋由美子 | 平成5年 6年 |
Good Love 友達でいいから |
内田有紀 | 平成7年 8年 |
Only You 幸せになりたい |
浅田美代子はやはりその歌唱力ゆえか。 聞くところによると、歌手デビューした昭和48年はNHKのオーディション(当時、NHKの歌番組に出演するためにはこのオーディションに合格する必要があった)を受けたものの不合格だったとか。 つまりは最初から選考対象に入っていなかったのかもしれない。
伊藤つかさと松本伊代はタイミングが悪かったんだろうか。
伊藤つかさの最大のヒット「少女人形」と松本伊代の最大のヒット「センチメンタル・ジャーニー」は共にデビュー曲で秋から冬にかけてのヒット曲。
この時期に新人がヒットを飛ばしても、あらかた選考が決まりつつあるのでその年に初出場することは難しい(あのジャニーズでさえ、秋にデビューしてその年初出場したのは1991年(平成3年)のSMAPが初めて)。
松本伊代の場合、1982年(昭和57年)の「抱きしめたい」、1983年(昭和58年)の「時に愛は」、1984年(昭和59年)の「ビリーヴ」など他のヒット曲もあるが、いずれも11月の発売。
残念。
わらべは民放色が濃すぎたのがいけなかったか。 それともイモ欽トリオ同様世間の支持が高くなかったと判断されたのだろうか。
菊池桃子は1985年(昭和60年)に関しては事前に辞退を申し入れていたらしい。
おニャン子クラブは民放色の濃さ+歌唱力のなさ+歌詞のきわどさと三位一体で向かうところ敵なし。 ソロデビュー組の新田恵理、国生さゆり、うしろ指さされ組あたりも圧倒的な歌唱力や深読みすると変な方向へ向かってしまう歌詞が問題となって出場できなかったのは仕方ないとして、普通の(ちょっと上のレベルの)アイドルという感じだった河合その子は出場できなかったことがもったいない気もする。 でも、おニャン子じゃなかったらあそこまで売れなかっただろうし。
昭和の終わり、NHKの歌合戦改革のあおりを食ったのが本田美奈子、南野陽子、浅香唯あたり。
特に南野陽子はオリコンシングルチャートで9作の1位を持ち、NHKの歌番組レギュラー出演、大河ドラマにも出演し、人気、NHKへの貢献度共に高かったが出場する機会がなかった。
本田美奈子はミュージカル女優への転身が1990年前後であれば、島田歌穂や市村正親のようにミュージカル俳優枠で出場できたかもしれない。
その後クラシックへも進出しており、クラシック枠での出場も期待していたが、残念ながら2005年(平成17年)に他界。
平成に入って歌合戦に縁がなかったアイドルは観月ありさ、高橋由美子、内田有紀。
観月ありさ、内田有紀に関しては、フジテレビのドラマへの出演が多かったことから、フジテレビの「FNS歌謡祭」へは出場している。
観月ありさは歌手デビュー翌年の1992年(平成4年)から2002年(平成14年)まで11回連続出場。
内田有紀も歌手デビューした1994年(平成6年)から3回連続出場で「TENCAを取ろう!-内田の野望-」「Only You」「幸せになりたい」の三大ヒットを網羅している。
高橋由美子は女性週刊誌で叩かれた性格の悪さが原因か。
紅組のボス和田アキ子に目をつけられたら出場は難しい(本当か?)。