交通信号が3つに見え始め

  いつもは気にもせず、人の流れに乗って渡る交差点だが、その日はちょっと違った。  何気なしに見上げた交通信号の赤く灯っている大きな点が、なぜだか3つに見える。  気になりだし、あっちの信号、こっちの信号と見回しても、灯ってる信号灯がどれも3つに見えた。
  それが心配で、仕事の手すきを見計らって、そのビルの数軒先にある眼科に行くことにした。  眼鏡屋さんの隣にひっそりと、看板がなければ、わからないような一般的古い家の玄関戸を引いて入った中は、薄暗い空間だった。  診療室と言えないこともないそんな部屋だった。
  症状を話すと、白髪のほっそりして白衣を着た眼科医が、「科学的に言って、3つに見えるはずがない。」という。  いろいろ検査らしきことをするが結局なんにも分らず、後楽園の前の眼科を紹介された。  大病院で医長をつとめられ、開業された先生だという。


左目の白内障を手術

  家から職場まで1時間かかるのに、それからまだ地下鉄で4つ先まで行って10分ほど歩かなければならない。  それなのに日帰り手術とは! 今でこそ、あっちの眼医者もこっちの眼科医も、日帰り手術が一般的だが、その頃には病院でするのが普通で、町医者ではめったになかった。
  手術台に乗ればそんなことはすっかり忘れる。 局部麻酔で行うので、眼に人工レンズが入ってくるのさえ見える。  入ってきたと思ったらするりと抜ける。  「西村さん、そんなに力まないでください。入ってくれない!」
  そして、東上線と丸の内線にのって、来る日も来る日も、ごっつい眼帯の上に仰々しく包帯をして、通ったものだ。
  網膜剥離の後、数年して、左も白内障の手術をした。  このときは、帝京病院で行ったので、新築した病棟で、全身麻酔で、本当に気楽に受けられた。  しかし、術後の検診は驚くほどの待ち時間でこちらもそれなりに大変だった。


異常事態発生

  術後の定期健診を受けるうちに、眼底に異常をみつけてくれ、導入して間もないレーザー治療機で、ドスンドスンと虱潰しに治療してくれた。  機械のモニターを見て、眼球の中を見ながら打つのだから、死にそうだろうと思うが、ほとんど痛くない。  そのうち、じわじわと鈍痛がしてくる。

  何回かレーザーを当てたある日、視野に違和感を感じた。  視野の検査をして、一部分が見えないことが分った。  医師は慌てて、紹介状の準備をして、「帝京病院は眼の権威がいるから---。」と、至急行くように指示をうけた。  それがその医院での最後の診療だった。
  最初は、右目の鼻よりの部分に少し違和感がある程度だったが、入院前にはくっきりと影が見えるようになった。
  明るい外では影は、真っ黒だが、暗い室内でTVを見ているときなどは、影が薄く見えるようだったが、その部分にはなにも見えなかった。  


網膜剥離

  そのころの帝京病院の眼科診療室は、暗室そのものだった。  雪降る中苦労して駅から病院まで歩いて行き、たどり着いた木造の病院はおんぼろそのものだった。  郎下に溢れんばかりに患者が待っていた。  呼ばれて入って行くとその先は真っ暗で何も見えない。  眼が慣れてくると、そこには部屋の周りに6つほど診療台があり、それぞれに医師と患者が眼科特有の機械を挟んで座り、小声で話をしているようにみえた。  ここですぐに網膜剥離と判断され入院した。
  ここの眼科の先生は朝早くから夜遅くまで患者を診ているようだった。  入院して日も置かず、ある夜、教授に呼び出されて行ってみると、病名と処置法に付き、眼底の地図のような手製の資料を見せて、説明をされた。


網膜剥離の手術

  手術は、<眼球を取り出し、眼球内にガスを入れ、眼球をバンドで締め、うつ伏せの姿勢を保つことで、はく離した網膜を接着する>と聞かされ理解したように覚えている。  今、WEB検索で調べてもそのような方法は見当たらず、あるいは勝手に思い込んだのかも。  手術後相当日が過ぎて見たその眼は掲載するには憚られるほどみじめな姿だった。  それまでは、とにかく寝ているときも起きているときも下向きでいなければならず、辛かった。  眼を上にすると泡がレンズの方に行き、網膜を押られなくなるから観念して我慢した。  それでもたまに体位を変えると視野には泡が映って本当に妙な気分だった。
    


網膜剥離の遺物

  おかげで失明するには至らなかった。  退院後頻繁に通った術後検診では、医師の指示に従い、右・上・左下・左・見下・・などと視線を視界の最縁へ移す運動をつづけた。  怠ると、機能が固定して、視力がでなくなると。  飛蚊症は、視界を点が浮遊するのだが、術後の目にはカラスともいうべき、大きな浮遊物が残った。  右図は、今PaintShopで描いてみたが、実際はもっと大きく視界を阻んでいる。  遠くに視点を置くとカラスはぼんやりするが、当然に、その向こうをみう視力は格段に落ちた。
  その後の一時期は、適性検査の時など、Cの字の向きが変わり、「これは?」と訊かれるたびに、視線をさっと右に移し戻して判別したものだ。  カラスがもどってくるのが少し遅れて来ることを利用した。
  その後、あちこちの眼科に見せ、除去できないか相談したが、「手術しても、治るかどうかわからず、非常に危険だ。」という。


無駄骨を承知の努力

  古希を迎え最初の免許更新が来た。  事前に眼鏡市場に行き、視力検査とともに強化した新しい眼鏡を買い求めた。  メガネは1段強くしたものの、両目による矯正視力が0.6どまりだった。  それでも、免許の適性検査はたぶん受かるだろうとのことだった。  70才を超えると適性検査の前に高齢者講習がある。  自動車学校でのそれは、認知機能検査ではないけれど、予約を取るのが難しく、3か月前に近所の学校で全て断られた。
  5月31日に生越で受けた講習は、制度最後のもので、翌日から変り、もっと取れなくなると言っていた。  その時にも、結果に影響ないが適性検査があった。  指導員の話は、眼鏡市場と同じだった。
  更新後の存続期間はそれまでの5年から4年に変わった。  4年もたつと視力減退はもっと進むに違いない。  認知検査よりもこっちの方が目下のハードルだ。
  無駄骨とは思うが、サプリのめ・まもーるを服用し、視力運動、運転中には前からくる車のナンバーを読み、訓練している。
  そして、PCで視力測定をする今日この頃である。