今日まで共に歩んだ車の記録

  普通自動車の免許は、自動車学校に入らず運転免許試験場に出向いて受けた。
  当時、仲間同士では、「地方試験」と呼んでいたが、全国的には「一発試験」というようだ。
  既に、自動2輪の免許を一発試験で取っていたので、高校へやって貰えるのもやっとの家だったので、当然のことだと思っていた。
  しかし、いくら何でも、一発では受かるわけがない。無免許で車に乗るほどワルではなかったし。
  試験官にどやされて、試験場の前面道路向こう側にあった教習所にゆき、ハンドルを回す練習をし、アクセルとクラッチ・ブレーキの踏み具合を感じ取った。
  それでも、5・6回は落ちた。電光掲示板に番号を見いだせず落胆したのちの合格の喜びは、半生のなかで最も嬉しい出来事の一つだった。  学校に比べれば雲泥の差の安さだったから。

最初のMyCar80ccBike

(昭和42年)YAMAHA 2サイクル80ccのバイク
  大学へ入ってからアルバイトで稼いで買った。 折角、無制限の自動2輪の免許(当時、原付2種)があるのだから。
  重い牡丹雪がしんしんと降りしきる一面真っ白な暗闇の中、ライトの前だけを睨んで、年末の家路を急 ぐ。
  堅くしまった雪の路⾯にうっすらとつもる新雪にハンドルをとられまいと、⼿と⾜⾸だけに⼒を集中する。 関節に極度の疲労を感じていた。
  そのとき、斜めの白い点線のスクリーンのその向こう側に、2つ並んだ光点に気づく。
  ハンドルをきってさけようとした。しかし、バイクは、固く締まった車の轍のみを頼りに走っていたため、タイヤはすべり続け、ハンドルを曲げたまま直進した。
  バイクは体と⼀体のまま光の進路の前に滑るようにななめになって雪をかぶった。
  目の前にで止まってくれていた4輪のすぐそこだった。




2本脚でも蛸

 (昭和43年) ワンボックス型の軽四
 中古の商用車。でも、初めての車だ。国鉄の鉄道保線の土方として大学の仲間にアルバイトに集め、現場まで運ぶことを条件に与えられた。
 小さな車にに6人ほど乗り、朝夕高岡から金沢まで往復したものだ。 苦しい北陸本線の路線夫の仕事も、遠路の「ドライブ」で癒されたようだ。
 後部の下にエンジンルームがあるダイハツハイジェットだ。
  休みの日には、大学の構内にあった学生寮の前で、仲間とのぞき込んで、調子を見てたような気がする。
  小遣いも稼げ、自由に「ドライブ」にも行け、本当に有難い車だった。極軽い軽4だから、ガソリンも食わないし。貧乏学生には勿体ない、オンボロをだった。


フェローMAX

(昭和44年) ダイハツ フェローマックス
 普通⾞など夢物語のそのころ、マツダ キャロルにあこがれた。軽四ながら4ドアでセダンの体裁をなしていたからだ。
 そのころ新発売のマックスを、進学を諦め高卒で働いていた兄にせがんで買わせておいて、専ら自分が使った。
 前のフェローより⼀回り 大きく変わり「これがマイカー」と自慢げだった自分。「反省!」
 新車の納車その⽇、⺟を乗せて試運転をした。のどかな農道を気持ちよく⾛っていたが、「あれよ、アレヨ」という間に50㎝程下の⽥圃の中に滑り込んでいった︕ 最初の⽇から、⾞の後押しをして押し上げたものだ。
 その⺟は早くに逝った。




新車をトラブルにダンプトラック

 (昭和44年) ⼩型ダンプトラック
 姫川の河川敷から農業貯水現場まで砂利を運搬するアルバイトをした。
 学生とはいえ、⼟⽅の周旋屋もどきの実績を認められて、新品のダンプトラックをあてがわれたのだ。
  納⾞その⽇に⼤きな⽯をダブルタイヤの左後輪の間に挟み、知らずにそのまま⾛続け、⾞は即⼊院となった。
 その夜こっぴどく叱られたものだ。
  河川の砂利採掘現場は、川水の流れが覆っており、運転中には、どこにダブルタイヤが咬むような石があるかなんて、わかるはずもない。
  <ダンプを運転するなら、載せたパイプで咬んだ石を外す方法くらい知っているだろう>ということだった。  ⽥圃の真ん中に⾃分で掘った⼤きな⽳にユンボが⼤きな⾃体を穴の中へ横倒しにはまり⼤騒ぎしたのもその頃だった。


本当に最初のマイカー

(昭和52年)トヨタ カローラ1200cc
 専らレンタカーにたより、夜8時までに戻せず、翌⽇まで1⽇料⾦加算で、悔しい思いをした時代を抜け、自分の力で初めて買った車は、12万円のトヨタ カローラ1200cc⾞検2年付だった。 3歳の幼児をもつ一家には、十分すぎた。
 関越も中央高速もなかったそのころ、安房峠越で意気盛んに年末の帰省を試みた。
  ところが、雪の⾶騨の⼭の中で⽴ち往⽣してしまった。エンジンが⽌まり、⾳もなし。
  あたりに⺠家もなく真っ暗な⼭中で、しんしんと降り続く雪の中、⾚ん坊を抱え⼀家3⼈、⼼細い思いをした。
 どうして脱出したかは、覚えがない。




Bluebird

 (昭和54年) ニッサン ブルーバード
 初めての新⾞。これに関するエピソードなにも覚えていない。
 気に入ったデザインとカラーだったので、はっきり覚えてるるが、写真も残っていない。
 頼りもないのに一本立ちした事務所も少しは軌道になり、しっかり動く車に変えた。外観同様に薄い灰色でソフトタッチの内装だった。
 今では、「ブルーバード」なんて車は、なくなったのかな。


業務用ジムニー

(昭和58年) スズキ ジムニー
 幌付きの軍⽤ジープを映画などでみるにつけ、その軽快さにあこがれ、経済的妥協から、ここに落ち着いた。一応、業務用だった。
  冬の寒さを考え、パネルバンの様になり、業務⽤にと「Office Nishimura」と草書的イタリックでサイドに 書いてもらった⾚いジムニー。
  この頃、業務の一端に土地家屋調査士業務があり、測量機材を積むためにこれにした。
 都会に悪路があるわけでもないのに4駆に魅せられて。 おもちゃみたいな⾞だった。




子供と一緒にドライブ

 (昭和 年) トヨタ マスターエース サーフ
 家族もふえ、⻄伊⾖でキャンプなどにと、買った(写真とは異なる)紺色のワンボックスカーだ。
 機能とスタイルにより選んだ。姉妹⾞のタウンエースとは殆ど外観も内装も同じだが、バンパー部分が少し⻑好みを左右した。
 ひるがのを抜けて、琵琶湖畔でキャンプをして、京都府の日本海側迄行ったことがある。
 幼い⼦供たちは、後ろ2列の座席をフルフラットにして広々とした空間を作りながら、いつも運転席に後ろから顔を寄せるように集まっていた。
 あの広さは、いったい、何のためだったのだろうか︖


カリーナED

(昭和60年) トヨタ カリーナED
 イクセレント・ドレッシーその名のとおり、優雅?なスタイルは今でもとおるものであった。 角の無い女性的なフォルムだった。
 オートクルージング機能を装備し、⾼速道路の⻑時間のドライブにも疲れを感じさせなかった。
  ブルーバードの後継に買ったものだ。


SUZUKI Alto

(昭和60年)SUZUKI アルト  妻の愛用にと買った車だが、小回りが利くので、結構乗り回した。
  小回りが利き・軽く右動きまわるの調書ではあるが、裏目になり事故を起こしそうにもなった。
  写真は、延々とオープンが伸び続けた武蔵丘陵カントリークラブの工事状況見学に行った時のものだ。
  結局、このゴルフ場も早々に潰れてしまった。




ビルの隙間をスイスイ

 (平成1年) フュージョン
 コンクリートジャングルには⾞は不都合。「スーツにネクタイでのれるバイク」ということで。
  交差点で⽌まるごとに中⾼年の羨望の視線を感じた気がする。
  ハーレーみたいな重厚感は無いものの、胸を張ってさわやかな都会を疾⾵の如く滑空するがごとく。
  だから、春と秋にしか運転せず。
  図体が大きすぎて、都心の事務所用マンションの駐輪場には目立ちすぎ、結局バイク王に引取ってもらった。


ハワイのレンタカー

(平成2年) クライスラー セダン(車名もわからない)
 ハワイのオアフ島へ家族旅行したときに、ホテルのフロントで紹介してもらったところで借りたレンタカーだ。初めての家族ぐるみの海外旅行だったので、国際免許証を申請して携帯していた。
  流石にBIG3のメーカー品だ、座席も室内も広く、総革張りだった。
  早速、自動車道路にでて、快適に走っていたかと思ったら、急に土砂降りだ。晴天だったのに。
  ウィンドウォッシャーのSWを探すが見当たらない。前が、全く見えない。そこに立ち尽くしてしまった。
  結局、直ぐ晴れたので、わからず仕舞いで、島めぐりをして、無事>に戻ることができた。




子供と一緒にドライブ

 (平成6年) 新型マスターエースサーフ 
 前のマスターエースの後継として買った。
 機能とスタイルにより選んだ。姉妹⾞のタウンエースよりバンパー部分が少し⻑く好みを左右した。
 
 
 


ジャガーW6
ジャガーW6

(平成5年) ジャガーW6
 バブル景気の終わりごろ、その恩恵を少し受け、まだそれほど裕福ではなかったが、手をだした。
 ディーラーではなく、西武デパートの外商部で買ったのもバブルだった。
 バスみたいなエンジンで6気筒の5340ccの車で、外側では低音のすごい音がした。
 高速を走ると普通の車では、タイヤの接地音がうるさく聞こえるが、これは全く静かで、横風を受けても非常に安定して走った。図体の大きさの割には低い車体だった。
 ブリティッシュ・グリーンがすごく好きだった。
 JaguareMarkIIは、もはや、骨董品のようであったから、夢はこれで満足するつもりだった。
 社外においてカバーを掛けていたが、その上から、30㎝ほどの大きなひっかき傷をつけて言ったやつがいる。 きっと、羨ましかったのだろう。 その後、家の一部を壊して、車庫に改造して、家族のように一緒に家の中で暮らした。
 最初点検は杉並の正規ディーラーで受けていたが、なにしろ高い! 探して、近所の外車専門の修理工場に頼むようになった。
 大きい割に、運転席は狭く、トランクにもゴルフバッグは1個しか入らなかった。
 永く一緒にいたようだが、エンジンルームから煙が上がったことがある。 2階から覗いていた長男の指摘で分かった。 エンジン部品の一部に穴が開いていた。
 修理をしてから処分する決心をした。 中古車販売店できいても二束三文、手数料を取られそうだった。 ヤフオクで120万でうることができた。1300万円位で買ったのに。




子供と一緒にドライブ

 (平成2年) 新型マスター・エース・サーフ
 先代のマスターエースの良さに惹かれ、新型トヨタ マスターエース サーフ4WDを選ぶ。
  ⻑くのったものの先代の⽅が良かった。
 
 


ジャガーW6

(平成9年) クライスラーJeepチェロキー
 RVで⼤きくなく、(渋滞で前の⾞の屋根越しに前⽅がみえるよう)背が低くなく、オートクルージングが有る⾞で決まった。
 貿易摩擦解消策で販売を押しつけられたホンダクリオだが、買ったとたんに委託販売解消とか。
 これも、社内が広く、勇足としていて、社交が高く前方が良く見えた。
 ガソリンが喰うのは、持つ以上当然のことだが、ジャガー同様、妻が絶対に運転しないのには、本当に困った。あるいみでは、これもよい車だった。




最初のハイブリッド車

 (平成12年) TOYOTA プリウス
 アメリカ的な良さに未練が残りましたが、不況問題と環境問題に押されてこんどは正反対のECOカー。
  ⽐較した⾞は、ホンダのインサイト。こちらは狭すぎて、よいところなし。
 最初のハイブリッドは、トヨタの実験車のようなものでしたが、本当に良い車でした。 実⽤性と居住性から選んだが、すばらしい⾞です。
 バッテリーはお化けのような大きさで、とても買えるようなものではなかったが、不調になった時に無償で交換してもらえたのには、助かりました。
 他の⾞︖ 考えられません︕
 アクアを買うまでの、12年間乗り続け、屋根が錆びて穴が開いてから、諦めました。
 これ以後のプリウスは、全体のデザインと運転席の狭さで、買う気がしません。




漸くのクラウン

 (平成2年) CrownRoyalSaloon
 Jaguareより格段良い車と、埼玉トヨタに勧められ、とうとうCrownを買いました。
 Crownは年配向きの車で、すごく多い車です。メタリックな紺色が気に入っています。
 すごく落ち着いた車で、大型車では、これまでの内で一番だと思います。
 後のクラウンは顔が良くないので、ハイブリッドにはしたいけど買い控えています。
 車庫に入れていると、何と車というものは劣化しないのだろう。 10年たっても、ピカピカでライトのカバーガラス?にも黄ばみは全くありません。
 この車も、妻は運転しません。 大きすぎるからかな?
 古希を迎え、まだ10年ほど乗るかも。 運転免許の更新ができたら。
 認知症は兎も角、視力が問題だ。 なんとか、頑張りたい。


AQUA

(平成26年)トヨタ アクア
 ハイブリッドで出した小型の普通車AQUAは、本当に良い車だ。妻用の車だが、一緒に出掛ける時には、自分が運転する。
 購入当時、薄い灰色がかった明るい空色は、どこへいっても、賞賛をうけた。 しかし、しばらくすると、あっちにもこっちにも同じ色のAQUA。 パンフレットの最初の頁を飾ってる色だから、トヨタも自信があったのだろう。
 こういうことも予想して、ドアミラーとフロントのマスク部分に黒のアクセントのオプションを選択しておいた。 だから、同じAQUAがならんでいてもすぐに打ちの車が分る。
 この車も、きっと、長い付き合いになるだろう。


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悪あがきの記録




川越市マレットゴルフ連盟
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