首皇子
おびとのみこ
- 生没年 701(大宝1)〜756(天平勝宝8)
- 系譜など 文武天皇の皇子。母は藤原不比等の女宮子。夫人(のち皇后)安宿媛(あすかひめ)との間に阿倍内親王・基親王をもうけ、夫人県犬養広刀自との間に井上内親王・安積親王・不破内親王をもうけた。他に橘古那可智(佐為王の女)・藤原武智麻呂の女・藤原房前の女も室としたが、いずれも子はなさなかったらしい(注)。諡号は天璽国押開豊桜彦尊、尊号は勝宝感神聖武皇帝、法名は勝満と称した。また菩薩戒を受けたため、後世皇帝菩薩とも称された(『延暦僧録』)。
- 略伝 707(慶雲4)年、7歳の時に父帝を失う。祖母の阿閉皇女が即位した後、714(和銅7)年、14歳で皇太子となる。
716(霊亀2)年、不比等と橘三千代の間に生れた安宿媛(のちの光明子)を妃とする。
719(養老3)年、初めて朝政を聴く。翌年不比等は薨去し、大きな後ろ盾を失うが、724(神亀1)年、伯母の元正天皇より譲位を受けて即位(聖武天皇)。
725(神亀2)年3月三香原離宮行幸。5月、芳野行幸。10月、難波行幸。
神亀3年10月、播磨国印南野行幸(万葉によれば9月)。10.26、藤原宇合を知造難波宮事に任命、難波京の造営に着手させる。10.29、難波宮に滞在の後、還御。
727(神亀4)年5月、甕原(みかのはら。三香原に同じ)離宮行幸。閏9.29、安宿媛の腹に初めての男子をもうけ、生後2か月にして立太子させる。しかし翌年皇子は夭折し、夫人県犬養広刀自が安積親王を出産する。
729(神亀6)年2月、左大臣長屋王謀反の密告を受け、兵を派遣、王を自害させる。これはのち誣告と判明。外戚としての立場を危ぶんだ藤原氏の、安宿媛立后に向けた策略であった。変後、不比等の長子武智麻呂を大納言に任命。
729(神亀6)年1月、京職大夫藤原麻呂が「天王貴平知百年」の瑞字ある亀を献上し、この祥瑞に因み「天平」と改元する。
同年8月、夫人安宿媛を皇后に立てる。
732(天平4)年8.17、第9次遣唐使任命。
天平6年1.17、武智麻呂を右大臣に任命。3.10、難波行幸。同年9.13、難波京の宅地を班給。この頃までに難波宮が完成か。
天平8年3.1、甕原離宮行幸。
737(天平9)年、疫病が流行し、死者甚大。武智麻呂以下藤原四卿が相次いで没すると、皇后の異父兄橘諸兄を大納言に任じ、唐から帰国した玄ム(げんぼう)・下道真備らを重用。9月私稲出挙を禁じ、防人を停止するなど、疲弊した国の改革に着手する。同年末、玄ム(げんぼう)の看病を受けて治癒した藤原宮子に面会。これが生母との生まれて初めての対面であったという。
翌年阿倍内親王を皇太子に就け、諸兄を右大臣に登用する。
738(天平10)年5.3、諸国の健児を停止(北陸・南海道を除く)。
天平11年3月、甕原離宮行幸。同年5.25、三関国(伊勢・美濃・越前)、陸奥・出羽・越後・長門等の国、及び大宰府管掌諸国を除いた国々の兵士を停止(天平18年12月旧に復す)。
740(天平12)年2.7、難波行幸。この際、河内国大県郡知識寺(帰化系氏族の私寺か)で盧舎那仏を礼拝し、大仏造立を発願する。
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甕原盆地 恭仁京の左京にあたる |
同年9月、藤原広嗣の乱が起こり、急遽関東に行幸、そのまま平城に帰ることなく、同年末、山背国恭仁の地に遷都。
翌天平13年春、国分寺建立の詔を発布。天下諸国に七重塔を作らせ、金光明最勝王経と妙法蓮華経を写さしめる。以後、大仏と国分寺の造立に国力を傾注する。
742( 天平14)年1.5、大宰府を廃止(広嗣の乱の影響か。3年後の天平17年6月再置)。同年8月から9月にかけ紫香楽宮行幸。
天平15年4月、紫香楽宮行幸。5.27、墾田永年私財法の詔を発布。7.26、紫香楽宮行幸(留連4カ月)。同年末、恭仁京の造営を中止。
744(天平16)年閏1.1、朝堂で官人に恭仁・難波の何れを都とすべきか問う。閏1.11、難波宮行幸に出発。この途上、安積皇子が脚病を発し恭仁京に還り2日後に急死。2.24、紫香楽宮行幸。上皇と諸兄は難波に留まり、2.26、諸兄が難波宮を皇都とする勅を伝える。
745(天平17)年1.1、紫香楽宮に遷都。1.21、行基を大僧正とする。同年4月から5月にかけて山火事と地震が頻発。5.11、平城に行幸し、そのまま都を平城に戻す。6.5、大宰府を再置。8.23、平城京の山金里で大仏造営工事を始める(『東大寺要録』による。但し大仏殿碑文によれば翌18年の同月日)。天皇・皇后・文武百官・女官らが土を運び大仏の座をつきかためる。8.28、難波宮行幸。9月、難波滞在中に重病を患い、危篤に陥る。同年11月、玄ム(げんぼう)を筑紫に追放する。
746(天平18)年10.6、金鍾寺行幸。
天平19年1.1、再び重態。
748(天平20)年秋、造東大寺司を設置。市原王を知事に任命する。造仏所・写経所その他は皇后宮職から離れ、造東大寺司の管轄となる。一説にこの時大仏造営の主導権が皇后から天皇へ移行したかという。
749(天平21)年1.14、行基により受戒、沙弥勝満と称す(『扶桑略記』)。同年4.1、東大寺行幸。盧舎那仏の前で宣命し、「三宝の奴と仕へ奉る天皇が命」と自らを称して黄金産出を仏像に報告する。天平感宝と改元。4.14、再び東大寺行幸。閏5.10、炎暑により重態。閏5.23、薬師寺宮に遷御。
同年7月、皇位を皇太子阿倍内親王に譲り、史上最初の男帝の太上天皇となる。12.27、東大寺行幸。
750(天平勝宝2)年2.23、東大寺に参向、封5000戸を寺家に施入。
天平勝宝3年10.23、重態に陥り、新薬師寺で法会。
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東大寺盧舎那仏 |
752(天平勝宝4)年1.3、重態。大晦日まで殺生を禁断。同年4.4、東大寺行幸。4.9、東大寺大仏開眼供養会を挙行する。
天平勝宝5年4月、盧舎那殿の前に戒壇を立て、皇太后・天皇と共に登壇して鑑真より菩薩戒を受ける。同年7.19、母の太皇太后宮子が崩ず。
755(天平勝宝7)年10.21、重態。同年11月、左大臣橘諸兄が上皇を誹謗し謀反を口走った旨密告を受けるが、これを不問に付す。
天平勝宝8歳2.24、難波行幸。3.1、堀江行幸。4.14、重態。4.17、平城宮還御。5.2、平城宮寝殿にて崩御(56歳)。佐保山陵に葬られる。遺詔により、新田部親王の子道祖王が皇太子に立てられる。
古代律令制の成熟期に君臨した天皇として絶大な権威を有し、死後も偉大な聖王として官人・僧侶・民衆の崇敬を永く集めた。
歌人としても優れ、万葉集に11首(04/0530・0624、06/0973・0974・1009・1030、08/1539・1540・1615・1638、19/4269)、新古今集以下の勅撰集にも御製が載る。
(注)『愚管抄』は聖武に6人の子があったと伝え、井上・阿倍・基・安積・不破以外にもう一人子があったか。772(宝亀3)年10.5菅生王と姦通し除名された小家(おやけ)内親王(『斎宮記』には「孝謙皇女、在任七年、天平勝宝二年」とあるが、「孝謙皇女」は明らかに誤記)、夫人を廃されたことが疑われる海上女王(04/0530・0531で聖武と相聞を贈答。父は志貴皇子)の子尾張女王(光仁天皇の妃で{稗}田親王の母。『皇胤紹運録』によれば父は湯原親王)、などが考えられる。
{稗}は正しくは草冠あり。
関連サイト:聖武天皇の歌(やまとうた)
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