橘宿禰諸兄
たちばなのすくねもろえ
- 生没年 684(天武13)〜757(天平勝宝9)
- 系譜など 美努王(みののおおきみ)の子。敏達天皇から五世(または六世)の裔。初め葛城王と称した。母は県犬養橘宿禰三千代で、光明皇后は異父妹にあたる。同母弟に橘佐為、同母妹に牟漏女王がいる。藤原不比等の子多比能を妻とし、奈良麻呂をもうけたとある(公卿補任・尊卑分脉)が、多比能の母は県犬養三千代ともあるから、同母兄妹の近親婚となってしまい、疑問。
- 略伝 710(和銅3)年、従五位下。翌年、馬寮監。
729(神亀6)年、正四位下に進み、同年左大弁。
731(天平3)年、参議。翌年、従三位。
天平8年、弟の佐為王と共に母の橘宿禰姓を継ぐことを請い、許される。これに伴い、葛城王から橘宿禰諸兄と改名する。
天平9年7.25、藤原武智麻呂邸に派遣され、病床の武智麻呂に正一位左大臣を授ける役を負う。藤原四卿没後、大納言に昇進。
翌年、阿倍内親王の立太子と同時に右大臣に就任し、以後政界を主導、唐から帰国した玄ム(げんぼう)・下道真備らをブレーンとして、疫病流行後の国政の立て直しを図る。
739(天平11)年1.13、従二位。
翌天平12年5月、聖武天皇を相楽別業(京都府綴喜郡井手町)に迎える。同年9月、藤原広嗣の乱が勃発し、関東行幸がなされたのを機に、恭仁京遷都を推進。11月、正二位。12月6日、不破仮宮より先発して恭仁郷へ新京整備に向かう。同月13日、恭仁遷都を実現。
743(天平15)年5月、従一位左大臣。同年7.26、紫香楽宮行幸の際、留守官として恭仁京に留まる。
天平16年閏1.11、難波宮行幸に従駕。2.24、聖武天皇は難波から再び紫香楽宮行幸に出発し、諸兄は元正上皇と共に難波に留まる。2.26、難波宮を皇都とする勅を伝える。同年秋か冬、元正上皇と難波宮で宴、上皇は諸兄に讃歌を贈り信頼を表明する(18/4057・4058)。
翌天平17年正月には紫香楽遷都がなされるが、災異が続発し、5月、聖武天皇は平城に還都、結局諸兄の遷都(脱平城京)計画は失敗に帰した。以後、次第に実権を藤原仲麻呂に奪われる。
天平18年1月、元正上皇の御在所で雪掃の肆宴、応詔歌を奉る(17/3922)。同年4.5、大宰帥を兼ねる。
748(天平20)年3月、越中守大伴家持のもとへ田辺福麻呂を派遣する。
749(天平感宝1)年4.14、東大寺行幸に際し正一位。同年12.27、宇佐八幡禰宜尼大神杜女の東大寺参拝に際し、詔を八幡神に伝読、辰年(天平12年か)河内大知識寺の盧舎那仏礼拝をきっかけとする大仏造立発願の経緯を説明する。
翌勝宝2年1.16、朝臣を賜姓される。宿禰から朝臣への改姓の初見。
勝宝4年4.9、東大寺大仏開眼供養会において女漢躍歌(おんなあやおどりうた)の鼓の座に加わる。同年11.8、自邸(井手の別業か)に聖武上皇を招き豊楽。右大弁藤原八束・少納言大伴家持らも参席(19/4269〜4272)。同年11.27、林王宅に但馬按察使橘奈良麻呂を餞する宴に出席。この時の治部卿船王・少納言家持らの歌が残る(19/4279〜4281)。
翌天平勝宝5年2月、「左大臣橘卿(諸兄)之東家」で諸卿大夫が宴を催し古歌について論ず(『袖中抄』『人麿勘文』などが伝える「万葉五巻抄」序の記事)。同年2.19、自邸で宴、家持「柳条を見る歌」を詠む(19/4289)。
754(天平勝宝6)年7.19、太皇太后宮子崩御に際し御装束司。
天平勝宝7年11.28、兵部卿橘奈良麻呂宅で宴を主催、自ら歌を詠む(20/4454)。同年11月、飲酒の席での上皇誹謗の言辞を側近の佐味宮守に密告される。上皇はこれを不問に付すが、翌年2.2、この責を負って官界を引退。
757(天平勝宝9)年1月、薨去(74歳)。万葉には7首、06/1025、17/3922、18/4056、19/4270、20/4447・4448・4454。『栄華物語』を始め、古くから万葉集の撰者に擬せられた。
関連サイト:橘諸兄の歌(やまとうた)
井手町の史跡・名所案内(井提寺跡・六角井戸ほか)
系図へ