安積親王
あさかのみこ
- 生没年 728(神亀5)〜744(天平16)
- 系譜など 聖武天皇の第2皇子。母は夫人県犬養広刀自。同母姉に井上内親王、同母妹に不破内親王がある。妻子があった形跡はない。
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安積親王和束墓 京都府相楽郡和束町 |
- 略伝 安宿媛(藤原光明子)所生の基皇太子が薨じた神亀5年に生まれ、在世する聖武唯一の皇子となる。将来の皇太子最有力候補と目されたはずであるが、翌天平元年安宿媛が皇后の地位につき、738(天平10)年には后腹の阿部内親王が異例の女性皇太子として立太子した。743(天平15)年秋から冬にかけての頃、恭仁京の藤原八束の家で宴を開く。この時の大伴家持の歌が万葉集に残る(06/1040)。また翌16年1月11日には皇子の邸があったと見られる活道の岡で家持・市原王らが集まって宴を開く(06/1042・43)。家持が当時親王と個人的に親交を結んでいたことが察せられる。同年閏1月11日、難波行幸の際、途中桜井頓宮で脚病により恭仁京に引き返し、2日後薨去。享年17歳。恭仁京の東北和束山に葬られる。2月3日と3月24日作の家持の挽歌がある(03/0475〜0480)。この後、家持は4月頃まで平城の故宅で謹慎していた節がある(17/3916〜21)。なお736(天平8)年、「親王」(安積親王)のための経典四部の書写の記録が残り、うち、薬師経と千手経各一巻は「井上王施」とあり、安積親王が姉井上斎王のために施写したものかという(須田春子)。
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