浄光明寺

第6代執権北条長時によって創建された北条氏の氏寺で、寺域には和歌の由緒を伝える冷泉為相(れいぜいためすけ)の墓や北条氏の館跡がある。浄光明寺は世界遺産登録をめざしている国指定史跡の一つである。

浄光明寺は足利尊氏が北条を攻めて北条得宗家が東勝寺で滅ぶ時に軍事拠点となったところである。傍流の北条(赤橋)守時の妹の登子が足利尊氏に嫁いで親しかったからということもあるが、現地に立って地形から判断するに鎌倉に攻め入るのに最も易きはやはり山ノ内から亀ヶ谷坂(かめがやつざか)経由だったのだろうと思う。

鎌倉に住んで25年以上経つ。英勝寺のそばにあるにもかかわらず未訪であった。2007年4月12日にはじめて訪れる。山門の外に冷泉為相卿旧跡と書いた石碑が立っている。冷泉為相は鎌倉時代の歌人で、藤原定家の孫、阿仏尼の子にあたり、「冷泉家時雨亭文庫」で著名な冷泉家の祖である。阿仏尼は「十六夜日記」の作者。東海道国府津の史跡 車坂に歌碑がある。

正面に大きな本堂(客殿)があるが新しいものである。その右手にあるのは不動堂。


不動堂 2015/3/23

奥の一段高いところにあるのが阿弥陀堂(仏殿)で一番古い。 阿弥陀堂の前には樹齢750年のイヌマキがある。観音堂は阿弥陀堂の左を奥に行った所にある。これが鎌倉三十三観音霊場第25番札所である。一般立入りの柵があっても庫裏に声をかけて入れる。

浄光明寺 阿弥陀堂とイヌマキ

2019年12月14日に鎌倉在ピアニスト広瀬宅で行われたコンサートのついでに寿福寺と浄光明寺にまわった。たまたま快晴で空気が乾いていたため収蔵庫が開いていて阿弥陀如来などの国重文などを見ることができた。これは撮影禁止である。仏殿にある仏像は市文のため撮影自由である。

網引地蔵と冷泉為相の墓は急な崖の旧坂を登らなければならない。


世界遺産登録をめざして活躍している内海氏が鎌倉プロバスクラブで行った浄光明寺に関する講演をご紹介しよう。

世界遺産に指定してもらうためにはまず国指定史跡になっていないといけないのでそういう基準で24ヶ所の候補を選びました。候補の条件として発掘して鎌倉時代の武家の遺跡であるという証拠があるか、古文書があるかということも重要です。そういう意味で極楽寺は忍性の墓くらいで伽藍は国指定ではないのですが、極楽寺奥の山の中にある一升枡遺跡や極楽寺の末寺である仏法寺跡(五合枡遺跡)は発掘調査され、国指定になりましたし、稲村ヶ崎小学校の発掘も含めて国指定の申請をしています。それでも極楽寺の切り通しは余りに改変されていて指定は無理でしょう。

浄光明寺は扇ヶ谷の一つ泉ヶ谷にあります。この寺の周辺には鎌倉十井の「扇ノ井」と「泉ノ井」がこの寺に近くにあるように泉の涌く地です。

よく皆様何宗の寺かと気になさいますが、鎌倉時代は宗派の別は明瞭ではなく、江戸時代から次第に区別されるようになり、明治期に確定したと思ってください。

ここにある阿弥陀如来像は鎌倉有数の巨像で1.41mあります。

北条家の系図を見ますと時政が初代で、その子、義時と時房の2系統に分かれます。本家の第2代執権義時、第3代執権泰時、第5代執権時頼と直系が続いて時頼以降、本家、すなわち得宗家という意識が強くなります。得宗家は第8代時宗、第9代貞時と続いて腹切りやぐらで有名な 第14代高時で滅びたことになっています。しかし第2代執権義時の三男重時の家系は赤橋北条家といわれますが、その5代目の赤橋守時が第16代執権となってはいたのです。ただ実権は高時が握っていましたので実質は第14代高時で鎌倉幕府は滅びたといわれるわけです。

浄光明寺はこの赤橋家2代目の長時が時頼の時代に創建されたと言われています。長時は時宗へのつなぎとして短期間、第6代執権になっています。ちなみに極楽寺は赤橋家1代目の重時が作りました。

最近、浄光明寺敷地絵図というものが発見されました。鎌倉幕府滅亡直後つくられたもので足利忠義の執事、上杉重義が花押 をしている由緒正しい古文書です。これを解析しますと守時跡という場所がでて参ります。これは赤橋家5代目の守時の屋敷跡とされました。右馬権助跡と書か れた時房の三男朝直の子孫である北条(大仏)高直跡、上野守跡と書かれた大仏直俊跡、土州跡と書かれた大仏宗泰跡などは浄光明寺の所領として所望し、上杉 重義に認めてもらったことが分かります。

同時代に円覚寺も今の東慶寺周 辺の寄進を受けて寺領に取り込んでいます。これが可能だったのは守時の妹の登子が足利尊氏に嫁いで親しかったからと、足利尊氏が北条を攻めた時にここがそ の軍事拠点になるという貢献もしたためと思われます。隣に御中跡というのがありますが、これは得宗家旧領のためか、所望しておりません。

鎌倉末期の本堂はなく、現在の浄光明寺の阿弥陀堂はこの絵図の慈光院と書かれたあたりにあります。この絵図に経塚というものがありますが、今ある稲荷さんを建て替えるために発掘調査したら 、経塚が出てまいりました。

地蔵院と書かれたところには現在はやぐらとお地蔵さんがあるだけです。

ついでですが、今、境内にある冷泉為相の墓は水戸黄門が造ったとされています。

黒文字は世界遺産登録をめざしている国指定史跡

April 16, 2007

Rev. March 27, 2015


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