メモ

シリアル番号 表題 日付

1166

日本古代史諸説の整理

2007/11/23

2007/11古代史遺跡を求めて難波・飛鳥・初瀬・山の辺の道を 歩いた。明日香村のある盆地を訪れて統一国家発祥の地とは思えぬ狭い山里であることを知り、どうしてこんな辺鄙なところで、日本統一の動きが完成して行っ たのか不思議に思った。また山の辺の道沿いの巨大古墳や奈良盆地の穏やかな水田地帯などの豊富な物的証拠を見せつけされると畿内大和の重要さは否定しがた い。過去の読書録を見直し、また新しく歴史書を読み、NHKの番組を含めて整理してみた。

3世紀の邪馬台国=畿内説を採用するのは小林行雄の「古墳の話」。 せっかく九州地域が畿内地域を併合する形で後の国家統一が行われたと考えるのが自然であるといいながら、考古学的出土品という物的証拠から3世紀の邪馬台 国は畿内の大和にあったという説を採っている。この他にも津田左右吉の呪縛に縛られた人々、考古学者にこの説が好きな人が多い。新井白石、内藤虎次郎もこ の説を採用。

3世紀の邪馬台国=九州説を採るのは斉藤忠の「日本人はどこから来たか」、安本美典の「巨大古墳の被葬者は誰」である。 安本美典の九州地域が畿内地域を併合する形の邪馬台国東遷説は主として文献解読からの説のようだ。卑弥呼=天照大御神説を採ることもかなり大胆。田口利明の「九州王朝説」は時期があいまいで、荒っぽいがほぼ同じ説。古田武彦の「九州王朝説」は古事記にある筑紫(ちくし)の日向(ひなた)とする。長部日出雄の「天皇はどこから来たか」日向の五ヶ瀬川を遡って臼杵(うすき)の山峡の山峡の棚田の地、高千穂で信仰と文化を確立した高千穂族の東遷説である。著者は邪馬台国や卑弥呼 には直接には言及しない。過去の著名な歴史家の説を整理して、邪馬台国=九州説は本居宣長、白鳥庫吉、植村清二、和辻哲郎、湯浅泰雄、関口泰、井伏鱒二と紹介。

NHKの「その時歴史が動いた」では大和が日本統一に成功するのは6世紀の継体天皇にあったとする。5世紀の後半の480年、雄略天皇が武力で全国統一し ようとして失敗し、各地の豪族に反発を買い、大和はその野望をくじかれていた。しかし510年、大和の大友氏と物部氏が聖徳太子の曾爺さんに当たる継体天 皇を当時の先進地帯である百済と深い関係にあった近江・越前から招き、大和による日本統一を委託した。継体天皇は百済から五経博士をまねき、屯倉(みやけ)制度を取り入れ、新羅と組んだ九州豪族の「磐井の乱」を平定して全国統一をした。そして地方豪族を国造(くにのみやっこ)として統一国家制度に取り込むのである。この継体天皇の功績はそうであろうとも、3世紀の邪馬台国東遷説とも矛盾するものではない。以上は記紀に準拠する皇国史観である。

近畿地方を中心にして出土し、紀元前3世紀から作られ始め、1-2世紀に盛んにつくられ、村落共同体内で信仰のための祭りに使われたと思われ、3世紀に忽然と作られなくなり、まとめて埋められている銅鐸が九州には絶対出土しないという 考古学上の知見がある。これから二つの推論がでてくる。

@邪馬台国など九州の文化度が高く、銅鐸には見向きもしなかった 。その文化中心が3世紀末に東遷し、近畿を文化的に征服したという九州王朝東遷説。この説は大和で銅鐸が突然みすてられた理由をうまく説明できるし、記紀神話の記憶とも一致する。しかし欠点は九州の考古学上の出土品の裏付けがまだ十分でないことである。

A邪馬台国は初めから畿内にあり、3世紀の邪馬台国は纒向遺跡(まきむくいせき)であり、卑弥呼の墓は箸墓古墳であるとする説である。この説の欠点は銅鐸の突然の制作停止の理由が説明できないことである。

B邪馬台国(倭国)は初めから九州にあり東進もせず、白村江の戦いで滅んだ。無傷だった大和政権がとってかわったとするのは古田武彦吉留路樹いき一郎らの中国側の歴史書をベースにした史観で、より普遍的である。

2007年12月、樫原考古学研究所が奈良県桜井市の三輪山の麓の脇本遺跡で3世紀の邪馬台国出現のころ、銅鐸を溶かして、鏡や矢じりに作りかえる工房跡 が出土したと発表。彼らはこれで邪馬台国が畿内にあったという証明にしたいようである。しかし銅鐸を鏡に鋳なおす工房の発見は宗教が入れ替わったというこ との証明にはなるが、なぜみずから宗教改革したのか説明できない。グリーンウッド氏は外から新しい思想が入ったと考えたほうが自然だろうと考える。新しい 思想は記紀神話の記憶で説明がつく。

しかし富士フィルムを引退後、考古学を学び国立歴史民族博物館でボランタリーの化学分析をしているマーはかなりの考古学研究者がここが邪馬台国だったと考えているという。 理由は卑弥呼の使者が朝貢した西暦239年の年号を刻む三角縁神獣鏡など考古学的遺物がこの周辺で多量に見つかっているからという。

2009年5月には箸墓古墳は出土する炭化物から西暦240-260年に建造されたと発表した。そうすると卑弥呼の墓という可能性が高くなる。(2009年には桜井市が纒向遺跡を発掘調査をすると報道された)

2009年11月、纒向遺跡で大型の建物跡がみつかった。建物群は日が出て沈むという太陽軸を大切にする東西軸線上に配置され、中国の地球軸思想の影響を受けてからの南北の線とは明らかに異なる。そして中軸線上を東に伸ばすと神が鎮座すると考えた三輪山の北にある巻向山(まきむくやま)にいたる。

2013年2月、宮内庁は桜井市の箸墓古墳と天理市中山町の西殿塚古墳への立ち入り調査を許可した、卑弥呼と後継者の台与(とよ)の 墓であるか確認させるためという。一般には「衾田陵(ふすまだりょう)」と呼ばれている西殿塚は箸墓古墳と同様の吉備様式の特殊器台が後円部に並び、埴輪 や墳丘の形態等からも箸墓古墳に続く時期の大王墓という見方がある。こうして築造時期は3世紀後半から4世紀初めごろと想定されている。

7世紀の大化の改新頃に関しては梅原猛の「隠された十字架ー法隆寺論」がまっとうである。

7世紀に九州政権が大和に移ったという川端俊一郎の「法隆寺のものさしー隠された王朝交代の謎」、平松幸一 の日本国成立の経緯解明調査中間報告」は3世紀から6世紀の間に九州から大和に政権の中心がうつったという説とは全く別物である。

いつか機会を作って北九州も訪問しなければと思う。

Rev. September 18, 2013


トップ ページヘ