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1034

九州王朝説(古田武彦)

2006/05/04

会社の先輩の平松幸一氏が2000年の年賀状で7世紀に九州政権が大和に移ったという九州王朝説を紹介されてから官製の歴史観、大和王朝一元史観に疑問を持つようになった。

学士会会報2004-VI No.849に掲載された川端俊一郎氏の「法隆寺のものさしー隠された王朝交代の謎」も新鮮であった。刺激をうけてインターネットで調べて、多元史観にたつ古田史学会なる存在も知り、読書録に追記した。しかしその後の読書の結果、いくつかの説には誤認もあることがわかってきた。日本古代史諸説の整理にまとめた。

その後、学士会会報2005-V No.854に田口利明氏の田口利明氏の「随書つい国伝」から見える「九州王朝説」という一文も読んで感銘をうけたが、時期があいまいで、荒っぽい説である。

川端氏は農学博士、古田史学会の古賀氏は化学、田口氏は経営者という歴史の門外漢であるところに共通性がある。

そうこうしているうちに古田史学会を率いる古田武彦氏本人が学士会報No.857(2006-II)に登場して「九州王朝の史料批判」という強烈な一文を寄せられている。以下その要旨をまとめてみよう。

氏は東北大学文学部卆の歴史学者だが、過去30年九州王朝説を提唱し、学術論文で論証点を明らかにしてきた。しかし学会の応答欠乏していて困っている。その論拠は8つある

1 後漢の光武帝が与えた金印が博多湾岸の前原市から出土し、かつ漢式鏡が日本列島から出たものの90%を占める。

2 天皇家を象徴する三種の神器の出土領域も博多湾周辺の前原市、福岡市、春日市の吉武高木・三雲・須玖岡本・伊原・平原の五王墓に集中している。

3 記・紀の神代巻に出現する国名は出雲と筑紫(福岡県)の両国が圧倒的である。璧・銅矛・銅戈・ガラス勾玉、鉄器等の考古学的出土状況も筑紫が質・量と もに抜群。出雲も荒神谷・加茂岩倉から銅鐸・銅矛の無類の出土領域となった。記・紀の神代巻は、六世紀の大和の史官の造作物とした明治時代の津田左右吉(そうきち)は正しくなかった。戦後の神話蔑視の慣用句は拭い去るときが来た。

4 本居宣長が古事記の天孫降臨の地を南九州の連峰としたが戦後発掘しても三種の神器の出土は皆無であった。隼人塚しかなかったのである。これは日本書紀の日向(ひゅうが)を南九州としたためで古事記にある筑紫(ちくし)の日向(ひなた)と理解すれば、高祖(たかす)山連峰、日向山(ひなたやま)、日向峠、日向川があり、その川が室見川と合流するところに吉武高木遺跡がある。日向山のとなりには「クシフル峯(だけ)」があり五王墓に囲まれている。この事実は六世紀の大和の史官が空想で神話を造作したという説を完全に否定するではないか。

5 近畿では大和を中心に天皇陵が濃密に分布し、連綿と祭られてきた。しかし北九州の五王墓、神籠石山城群、装飾古墳などは死んだ陵墓である。まさに「生き残った王朝」と「ほろぼされた王朝」の生証人であろう。

6 倭国の五王(讃・珍・済・興・武)の首都、都督府が筑紫都督府にあった。天智6年(667年)11月に唐の戦勝軍が筑紫に入来し宮室・陵墓を破壊したのだ。以後死んだ陵墓もままで現在に至っている。大和の宮室・陵墓に破壊された形跡はない。

7 近畿天皇家中心の一元主義も仮説、九州王朝説というのも仮説、緻密に検証すれば九州説に軍配があがる

8 大宰府には紫宸殿、大(内)裏、大(内)裏岡、朱雀門がある

以上

津田左右吉の記・紀の神代巻を否定した単一民族神話はマルクス主義者から高い評価を得て戦後の古代史学にはかりしれない影響を与えた。この説に従い出雲王 朝は架空のものと言われてきた。しかし最近、多数の発掘物が出てくるに従い、現在では、出雲に大きな政治勢力が存在したことは確実視されている。シュリー マンのトロイのように神話が事実となりつつあるのである。

古田武彦の九州王朝説が不人気なのも「人は信じたいことを信じる」からだろう。天智6年(667年)11月に唐の戦勝軍が筑紫に上陸して宮室・陵墓を破壊 されたなど聞きたくないのだろう。鎌倉時代にも神風が吹いてモンゴル軍を上陸させなかったというプライドを維持したいのだ。そして単一民族、万世一系の天 皇家などは日本人のアイデンティティーにとって心地よいものはないからだ。しか 事実は事実とみとめて、さてどうするとういう思考の方が健康的で建設的な態度だと思うのだが。 日本史では筑紫に上陸した唐軍により宮室・陵墓を破壊された天智6年(667年)に中大兄がクーデターを起こして大和朝廷の実権を握ったことになってい る。いずれにせよ空前の国難であったわけだ。

九州王朝説は卑弥呼のいた邪馬台国が九州にあった方が都合が良い。天の岩戸と天照大神の神話が皆既日食だったとすれば卑弥呼が没した248年に皆既日食があったという考えもできると天文考古学が教える。とすると皆既日食のあった場所に北九州が入るか、大和が入るか興味あるところだが、いまのところ日本書紀に記載の628年の皆既日食は確かなものと確認されたまでで、遡るには近隣の記録が必要とのこと。

長部日出雄の「天皇はどこから来たか」も参照されたし。

Rev. January 8, 2014


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