読書録

シリアル番号 917

書名

天皇はどこから来たか

著者

長部日出雄

出版社

新潮社

ジャンル

歴史

発行日

2001/5/1発行
2001/11/5第4刷

購入日

2007/11/23

評価

新潮文庫

鎌倉図書館蔵

難波・飛鳥・初瀬・山の辺の道を歩く旅から帰って古墳時代から日本国家統一までの歴史に興味をもって図書館から借りてきた本の一つ。

縄文時代から書き出し、大胆な仮説をたてて天皇の誕生のなぞを解き明かすという触れ込みの書である。 読売新聞に連載されたものに加筆して新潮社で単行本にしたという。

著者はジャーナリストである。氏の故郷、青森県の三内丸山遺跡や鹿児島県国分市、上野原遺跡の出土品は無論のこと、出雲の神話と神殿、国譲りのとき出雲から科野(しなの)の州羽(すは)に逃れたという神話のある諏訪の御柱祭り 、伊勢の忌柱(いみばしら)、忌柱を覆う心御柱覆屋(しんのみはしらおおいや)など採集と漁労で生きた縄文文化の記憶を今に伝えているという。これらの遺跡や宮は必ず海岸または湖岸にあり、山を背にして山の巨木を神殿や御柱につかう巨木文化であると共に神話や儀式には舟や航海に関係あるものが多い。

この採集と漁労で生きた縄文文化に大陸から稲作という弥生文化が伝わった時、どのようなことがこの日本列島に起こったかを古今の文献と出土品を参考にしつつ、考察して独自の推論をする。

古代の歴史を組み立てるには残された文献と、現在に伝わる宗教・祭り風習、そして考古学の出土品が根拠となる。したがって推論の前に特に「記紀」、中国の「魏志倭人伝」、「隋書倭国伝」などに代表される過去の文献の解釈に関する古代史の大家の説をレビューする。

松本清張の「古代史疑」で行った著名人の邪馬台国の畿内説v.s.九州説の学説を紹介しながら自ら見つけた類似の論争も加え、次のように要約 したのち独自案を提示する。

新井白石の「古史通或問(こしつうわくもん)」:邪馬台国=大和国説、卑弥呼=日御子(ひみこ)

本居宣長の「馭戎慨言(ぎょじゅうがいげん)」:邪馬台国=九州の筑紫説、卑弥呼=姫児(ひめご) 本題から脱線するが本居宣長は国粋主義者であるが上田秋成の「膽大小心録(たんだいしょうしんろく)」はその国粋主義を痛烈に批判している。

白鳥庫吉(東大教授で津田の先生)の「倭女王卑弥呼考」:本居宣長の邪馬台国=九州説を支持、卑弥呼=宗教的君主=神託を伝える巫女(シャマン)=女王の尊称で姫尊(ひめみこと)。従って記紀神話は卑弥呼時代の歴史的現実の反映。ということは卑弥呼は天照大神の原型と示唆。

内藤虎次郎(湖南)京大教授:邪馬台国=畿内説、卑弥呼=大和朝廷の斎王倭姫命

植村清二の「神武天皇 日本の建国」:邪馬台国=九州説 ただし邪馬台国でない北九州の勢力が東遷して大和に移る。

河上肇(はじめ)の「崇神天皇の朝神宮皇居の別新たに起こりし事実を以って国家統一の一大時期をか劃するものなりと為すの私考」:崇神天皇の頃、神宮と皇居との別が初めて行われた。すなわち各氏族の祖神を統一して天照大神が全国共通の祖神となったということだろう。

ここで戦後の古代史研究に多大な影響を与え、皇国史観を払拭することに使われた津田左右吉を登場させる。

津田左右吉の「神代史の新しい研究、古事記及日本書記の新研究」:神代上代史捏造論、神代史は事実を伝えたものではなく、作り話である。皇室の万世一系の根本原理は血縁でつながれた一家の親しみであって、威力から生ずる圧服と服従ではない。したがって第14代仲哀(ちゅうあい)天皇までの存在は架空とした。

和辻哲郎の「日本古代分化史」:津田左右吉に反論し、国家を統一する力は九州から来たという物語の中核は作為とはいえないと主張。神武東征は作為ではない。

湯浅泰雄の「神々の誕生」:ヤマトの女王国に対峙していたと魏志が伝える狗奴国(くなこく)の消滅が大和朝廷の源流。先生の和辻哲郎はこれを支持して、狗奴国とは日向起源の伝説に所を与えた。今後の考古学の発見待ちだという。

関口泰の「文藝春秋」:天孫降臨の地は臼杵の高千穂

井伏鱒二の「新潮、文学界」:天孫降臨の地は臼杵の高千穂

著者の新説: 巨人津田左右吉の説があるにも関わらず、ホメロースとシュリーマンの例にもあるように神話が全て架空とする説には、生活実感まで創作することはできない。やはり津田左右吉がフィクションと断定したにも関わらず神話には歴史的な記憶が残っているのだろうと現地を歩きながら独自の仮説を奔放に繰り広げる。 邪馬台国や卑弥呼にはふれない。すなわち、上野原遺跡のように縄文時代を鹿児島湾沿岸のシラス台地で霧島山系にある高千穂峰を見ながら過ごしてきた天孫族が稲作の伝来に伴い、稲作には適さないシラス台地を捨て、鹿児島湾沿岸から出発して、舟で日向灘(ひうがなだ)の沿岸沿いに北上し、延岡の河口に上陸。この平野に住んで水田を広げ、ついで五ヶ瀬川を遡って臼杵(うすき)の山峡の棚田の地、高千穂で、長年にわたって着々と勢力を蓄え、きわめて独特な宗教と文化を築き上げた。3世紀後半、彼らはそこからより、稲作に適した気候が穏やかで、灌漑がしやすい大和に向かったとする。 そのルートは豊前の宇佐を経て、筑紫の岡田宮に1年、安芸の多祁理(たけり)宮に7年、吉備の高島宮に8年とステップを取って東にむかう。そして最後に一気に河内 から大和を攻めて敗退し、転進して熊野から、吉野、宇陀(うだ)、忍坂(おさか)経由で大和盆地の南端の橿原 に宮を築く。原大和朝廷の東遷の過程で一種の宗教革命、文化革命、産業革命があった。宗教革命とは稲作に大切な太陽の象徴たる天照大神(鏡)を天孫族の祖先神とし 、豊年万作を象徴する穀倉を神殿様式としたことにある。産業革命は例えば棚田による稲作、機織、絹製品かもしれない。大和を平定したあと、全国を統一するのは武力というより彼らが作った宗教の力だっただろうという。7世紀の仏教伝来は太陽神を神とする天皇家にとっては危機だった。国際派の蘇我家と保守派の物部が争ったが 、聖徳太子が蘇我側について勝利し、仏教を導入した。そして天智天皇のころ大化の改新を行い、中国的な律令国家ができた。その後も天皇家は宗教の祭祀、そして大や将軍は軍事力と政治力で統治するという、二重政体組織で日本は統治されてきた。軍事力と政治力は実力あるものが交替し、血統を宗教力の根源とする天皇家は継続することに意義があったので万世一系をむねとしてきたのである。しかし絶対王権という一元パワーで植民地開拓にむかって東洋にやってきた西洋に対抗するために、明治維新では西洋がその後獲得した民主政治を採用せず、絶対天皇制をとって天皇に政体を一本化し、軍事力たる統帥権を天皇に与えて暴走し、太平洋戦争に負けて、再び天皇家は象徴にもどった。 しかし、人民が自ら考え判断するという民主主義の習慣はまだ身につかず、一億総なだれ現象は継続している。

古田武彦の「九州王朝」も九州から大和へという流れだが詳細は違う。すなわち古事記の筑紫(ちくし)の日向(ひなた)と理解すれば、高祖(たかす)山連峰、日向山(ひなたやま)、日向峠、日向川があり、その川が室見川と合流するところに吉武高木遺跡があるという新説を展開して日向の山峡の棚田の地、高千穂には疑問を呈している。その他は「日本古代史諸説の整理」を参照されたし。

Rev. December 5, 2007


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