メモ

シリアル番号 表題 日付

1262

日本史上の重要な古墳
2009/12/15

邪馬台国=畿内説vs九州説については日本古代史諸説の整理に整理したとおり。ここでは当時の他の遺跡、古墳について整理した。

箸墓(はしはか)古墳:魏志倭人伝記載の邪馬台国のは纒向(まきむく)遺跡にあった。卑弥呼の墓は纒向遺跡の6つの前方後円墳の一つ?240年三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)、東海、吉備、山陰の土器、ベニバナ花粉、鉄滓(てっさい)、葺石

楯築(たてつき)弥生墳丘墓:吉備の国の中心?卑弥呼に先立ち107年に後漢に朝貢した後漢書東夷伝の倭国王帥升(すいしょう)の墓?、玉類、鉄剣、水銀朱

出雲市の西谷3号墓:四隅出型墳丘墓、出雲弥生の森、貼石

北九州:鉄製品が多い

志賀島(しかのしま):57年の後漢の光武王が奴国王に授けた金印「漢委奴国王(かんわのなのこくおう)

伊都国の前原市(まえばるし)平原(ひらばる)遺跡(方形墳丘)、伊原鑓溝遺跡、三雲南小路遺跡:いずれも小さいが副葬品は多い。前漢鏡、ガラス勾玉、メノウ管玉

吉野ヶ里遺跡:環濠集落

久留米・八女:527年の「磐井の乱」


学士会報別冊U SEVEN Vol57, September 2014 大阪大の福永伸哉文学部教授が考古学の最新発掘情報をあげ

@ 銅鐸原料は鉛の同位元素から大陸由来
A 前漢鏡、後漢鏡は圧倒的に北九州に分布が山大国九州説の根拠
B 北史には卑弥呼は240-249年に没とある
C 箸墓古墳出土土器に付着した炭化物をAMS法と年輪年代から庄内式期(弥生時代から古墳時代に移り変わる、ちょうど中間期の240-260年に構築と判明
D 庄内式期には北九州は衰退期にあった。北九州から畿内に土器などが運ばれた形跡はない。したがって東遷説は成立しない
E 大和盆地には巨大な前方後円墳が多いのは機内説の根拠
F 三角縁神獣鏡の分布は圧倒的に大和に分布する。三角縁神獣鏡は中国では1面も発見されていないが、その他の中国製またはその模倣鏡の紐穴は円 型であるにたいし、三角縁神獣鏡のそれは四角である。これから魏皇帝が卑弥呼にあたえた銅鏡百枚の紐穴は四角であったと類推できる。

と主張している。

AMS法は14Cから年代を推定する手法だが、誤差がある。この誤差を減らすために水月湖の底にたまった沈殿物と比較することが行われる。

このように考古学の最新の知見から文献の深読みから導かれた田口利明氏の「九州王朝説」や古田武彦氏の「九州王朝説」は分が悪い。

Rev. November 1, 2014


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