読書録

シリアル番号 661

書名

法隆寺のものさしー隠された王朝交代の謎

著者

川端俊一郎

出版社

ミネルバ書房

ジャンル

歴史

発行日

2004/2第1刷

購入日

2004/11/29

評価

原著は読んでないが、著者自身が学士会会報2004-VI No.849に書いた川端仮説なるものの要旨を読む。川端氏は北大の農博で歴史には門外漢の方である。

<川端仮説>
川端氏は法隆寺建立に使われた「ものさし」で新説を展開する。法隆寺は中国南朝尺で寸法が合う。日出処天子の太宰府は、もと南朝の都督府で倭国の首府、その遺構も南朝尺だ。遣隋史のころ筑紫で落成し、大和へ移築された法隆寺は、隠された王朝交代を測る「ものさし」でもあるという説の展開。観世音寺説を否定すれば当然それに変わる存在を提示しなければならない。残念ながらこの論証中に具体的提示は為されていない。しかしこの建物が海東の天子を名乗った多利思北孤によって営まれたものである以上、隋書に書かれた倭王の都「ヤミタイ」に接しX寺が存在したに違いないと推論している。仮定の論証の弱点を補う意味で日本書紀の記事を援用している。即ち崇峻紀及び推古紀の法興寺関連記事である。 これは在来元興寺(飛鳥寺)の記事とされていたものであるが、川端氏はこれこそ九州王朝関連記事の取り込みであり、日本書紀の常套手段であるが、これにより辛くもその存在が資料的に実証出来たと述べている。 川端理論は「多元史観」にたつが、米田仮説の太宰府観世音寺移築説は礎石間隔の寸法不一致により疑問視。

<米田仮説>
「年輪年代法」に依る芯柱の伐採年確定と言う革命的事実を受けて、川端仮説に先行し、10年前に米田良三氏の「法隆寺太宰府観世音寺移築説」が発表された。これは「近畿天皇家一元説」に立脚する。

<大越仮説>
「多元史観」にたつ大越邦生氏 の『法隆寺は観世音寺の移築か』は米田仮説の観世音寺説は否定。否定の重要な論拠として、現観世音寺の礎石の状態を列挙している。

<飯田仮説>
古田史学会の飯田満麿氏は川端・大越両氏の説に刺激されて新しい仮説をたてた。すなわち九州王朝の上宮法王を称し自らを日出ずる処の天子と主張した多利思北孤は、その宮殿に接して壮大な寺院を営んだ。その名は法興寺であった。白村江の敗戦により倭国の内政外交を独占した天智天皇は、唐に対する最大の融和策として天子の象徴法興寺の撤去を思い立ちかつ実行した。この際東アジアに隠れもない名建築に対する尊敬のためか、人民大衆の素朴な信仰に対する配慮からか、焼却等の暴力に訴えることなく再建可能な方法で撤去し、跡地に名を替えて観世音寺の建立を命じた。「続日本紀」元明天皇和銅二年詔書の記事は其の証拠であり、名建築の存在に愛着した日本書紀編集者はさりげなく九州王朝史料から法興寺の記録を転載した。

<古賀仮説>
古田史学会の古賀達也氏は更に新しい仮説を唱えている。すなわち大和朝廷によって存在そのものが隠された九州王朝の寺院の名称が伝わっていなくとも、不思議とするに当たらない。法隆寺五重塔心柱の伐採年が五九四年であったことから、創建年代が六世紀初頭であること。次いで、西に金堂(東向き)と東に塔を持つ観世音寺型伽藍配置であること。そして、上宮法皇を模した釈迦三尊像が安置されるほどの寺格であることから、九州王朝の中枢領域内に存在した寺院であることである。この条件に一致するものは文献史料上では、一つだけ存在する。『二中歴』所収「年代歴」に見える九州年号とその細注は九州王朝の事績を記した貴重な史料であるが、その中に見える「倭京 二年難波天王寺聖徳造」 という寺院創建記事は、倭京二年に創建された難波天王寺ではないかと推論する。

九州年号の倭京2年は619年に当たり、先の三条件の内の創建年代は該当する。もちろん、上宮法皇の多利思北孤の治世期間に相当する。問題はこの難波が大阪の難波なのか九州の難波なのかという点である。『日本書紀』によれば崇峻天皇即位前紀(587)に、「摂津の国に四天王寺を造る」とあり、『二中歴』の記事とは創建年次が異なるのだ(推古元年条にも創建記事が見える)。しかも、名称も四天王寺であり、天王寺ではない。こうした点から、『二中歴』に見える「難波天王寺」は大阪の四天王寺のことではない可能性が高いと思われる。また、『二中歴』「年代歴」の細注は九州王朝の事績を記していることから、この難波天王寺だけ唐突に近畿天皇家の事績が記されているとするのは不自然である。次に難波という地名であるが、福岡市に難波池という地名が残っており、そこが難波の候補地として有力視されている。この難波であれば筑前中域であり、九州王朝中枢領域内だ。また、観世音寺と共に『二中歴』に記されるほどの寺院であることから、その寺格の高いことは十分予想できよう。また、造った聖徳という人物も、後に大和の聖徳太子の事として盗用された、日出ずる処の天子の多利思北孤、あるいはその息子の利歌弥多弗利のことではあるまいか。伽藍配置については史料上に記されていない為、うかがうべくもないが、名称が残っているという点から、飯田氏の疑問に答えうる寺院候補と言い得よう。

聖徳太子が九州王朝の人だったとは!!!ところで古賀氏は化学を学んだ人であるが、古田氏を知るにおよび、古田史学会に入られた方で、その説は新鮮であるが、やはりこの説は文献のあやまてる解釈の一つであろう。

関連文献:検証 白村江の戦い隠された十字架ー法隆寺論平松幸一氏の日本国成立の経緯日本古代史諸説の整理

Rev. December 5, 2007



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