東京北ラス会

1957年(昭和32年)長野北高等学校ラスト(旧長野中学、現長野高校)の卒業生の会という意味で「北ラス会」と自称している。戦後マッカーサーの命令 で北をつけさせられていたことがあったためだが、この年以後北がとれた。我々がその北がついていた時代の最後の世代というわけ。東京周辺在住の同期生は東 京北ラス会のメンバーということになり 、才口千晴弁護士が熱心に常任幹事を務めてくれたおかげで結 束の固い会となっている。おかげで最高裁も見学できた。判事と しての成績簿は最高裁判所判事の評価にまとめた。

松島常任幹事が日本外国特派員協会の会員のため、毎年5月連休の直後の第2土曜日にこのダイニングルームで東京北ラス会が開催されるようになって久しい。

東京北ラス会に登録されている会員数は197名だが、よく出席するメンバーはその3割の60人くらいのため、幹事の役も10年でめぐって来ることになる。 グリーンウッド氏は2000年、幹事を務めた。下記はその時の報告書である。

2000年 東京北ラス会開催報告

日本外国特派員協会のダイニングルームは皇居を見下ろす素晴らしい景観を誇っていたがついに2006年には隣接地に高層ビルが出現し、日比 谷公園方面の視界が妨げられるようになってしまった。

長野北ラス会のメンバーの有志は三金会な るものに毎月1回参加して飲んでいるが、東京も山木会なるものを 奇数月に開催している。この有志が集まって坂東巡礼や秩父巡礼をしたこともある。

昭和32年北高(現長野高校)卒業生のなかで通学困難な西山出身者らが始めた内輪の会に山また山 の山の会がある。 そこからスキー同好者が集まって4Sク ラブが生まれた。

2007年5月より北ラス・フォーラムが 同時開催されるようになり、NEW フォーラムも派生した。

2007年10月13日13-14日、高校卒業50周年記念の同期会が上山田温泉の清風園で開催された。卒業後の50年 は戦後の高度成長期、バブル崩壊と重なっている。この激動期を生き抜いた各位108名が集まった。

小笠原、才口らと  西沢重篤撮影

同時に物故者法要を善光寺で営んだ。同期会では記念 誌と記念プレートの配布がなされ、翌日はゴルフ大会、松代の海津城跡と川中島古戦場の訪問あ るいは信濃巡礼と3つのグループに分か れてそれぞれ愉しんだ。

2013年5月10日、第6回北ラス・フォーラムと第56回北ラス会が大手町1丁目のKKRホテルで開催された。川端中学の同期が集まって記念撮影。野本は今は医者となって伊豆を終の住処としているが実家は横浜の富岡にあると聞く。明治時代は横浜の富岡は明治の元勲たちが別荘を構えていた。伊藤博文は 野本作左衛門の家に仮寓していた。(後、夏島に別荘を建てそこに移る)最近まで存在したこの家は、草屋根の大きな家で、海岸へ通じる道からの入り口には、 立派な門を構えていて、この辺りは、近隣の屋敷と共に鬱蒼としていて、異様とも思える処であったという。いまは富岡の東浜は埋め立てられたが、まだ旧家の一部は 残っているそうだ。


左から青木、遠藤、(小粥)、野本、白田、土屋  西沢重篤撮影

2015年7月22日、築地の朝日新聞本社内の「レストラン・アラスカ」で開催された「川上君の偲ぶ会」に友人たちが集まった。大学同期の吉井さんが世話人である。

Rev. July 20, 2015


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