川上君を偲んで

2014年に亡くなった川上君とは高校3年の時同じクラスだった。覚えているのは担任の池田先生が彼には一目置いていたことと、何かのイベントの後、酒を飲んで善光寺裏に 繰り出し、あこがれの西高にストームをかけた時のガキ大将だったくらいしか覚えていない。これは警察沙汰になったが池田先生は彼には一目おいていたことを覚えている。その理由は入学時の成績が首席だったからと聞 いている。その後、東大法学部をでて、朝日新聞記者になった。朝日新聞は親の代からの愛読紙だった。いまだに読んでいるが、カイロ支局長やチューリッヒ支局長としての署名記事など品格のある記事を覚えている。

仕事を引退して悠々自適の日々を過ごしていた頃、高校同期会の「北ラス会」、「山また山の山の会」、スキー同好会、西高との親睦会などでご一緒させてもらった。

西高との親睦会のフォローアップをしているとき川上君が急にインド・アフガニスタンでの取材の思い出話しの書き下ろしを送ってきた。我がサイトに掲載せよと いうことだった。一字一句も修正なしに掲載できるのをみて、さすがプロと思った次第。150ページに達する大部のものだが、ここからハイパーリンクを張って紹介する。インド・アフガニスタンは私も仕事で訪れたことがあ るので、楽しませてもらった。


北ラス会

●  社会にでてから北高最後の卒業世代の同期会「北ラス」会で、年に1回ので会う程度であった。
●  川上君は2007年には卒業五十周年記念誌「踏みゆく大地の50年」の編集長になった。彼が打ち出した方針は文字制限なしであった。反対した人もいたよう だが、彼はくじけなかった。私はこれに飛びついた。私は自分が基本設計したLPG基地が神戸地震で破壊され、あわや10万人に避難命令を出す必要があるか どうかという判断を迫られる事態を経験していた。幸い扱っていた物質はPLGであったため、駆け付けた建設所長の英雄的行為で収束できた。これがもし原子 力発電所ならどうなるかと、頭のなかでシミュレーションし、とても原子力発電は受容できるものではないと考え「通らなかった道」 を書いて編集長に提出したところ。さすが半分に削ってくれとは言われたが採用してくれた。編集長の慧眼があったものと思うが、結局、虫の知らせというか 2011年3月11日が来るのである。この事態を整理し、さらに「原発敗戦」という本を工学社から出すことになる。この本はかなり専門的で一般には売れな かったが、専門家には評判がいい。「原発敗戦」というネーミングを朝日新聞の元名物記者船橋洋一氏がパクるという名誉を得た。


山また山の山の会

● 西山出身者を中心とした会は1993年から開催されていた。
● 2005/5/21に誘われて参加したら、そこに川上君がいた。山菜料理で飲んだ翌日は有志と長野市まで遠距離歩く戸隠高原ハイキングを楽しんだ。



2006/5/28 大座法師池までハイキング 写真2
 


4Sクラブ

●  北ラス会の有志のスキークラブの幹事の北沢君が会の特徴を現す「好(スキー)・湯・酒・唄」の4文字のぐい飲みを作ってメ ンバーに配った。これを英訳 しSki-Spa-Spirits-Song Club短縮して4S Club。会場は野沢温泉スキー場、定宿は「いけしょう」。

川上君は覚えたばかりのスキーに夢中になって、野沢だけでなく、あらゆるスキー場に出没していたようだ。野沢での記録は・・・

2006年

34年ぶりの野 沢温泉

2006年2 度目

2006年3 度目

2006年4 度目

2007年

2007年1度目

2007 年2度目



2007/2/15 「いけしょう」にて 写真2

2007 年3度目

2008年

2008 年1度目

2008 年2度目

2008 年3度目

ワッペン完成

2009年

2009 年1度目

2009 年2度目

2011年

2011 年1度目

2012年

2012 年1度目

2014年

2014 年1度目


志賀高原スキー

● 大学同期で農水省の役人になった吉井さんと一緒に志賀高原スキー場に招待された。



 2008/12/26 蓮池朝日寮にて  写真3


NEW Forum

ノースウエスト・アース・フォーラムは長野北高、西高の卒業生と鍋倉高原の農家の集まりである。

● 2008年2月13日、「古寺巡礼と観梅及び座禅」 の東慶寺の座禅後、第3部として鎌倉銀座アスターにて会食をした。夜も更けていいいよ散会というとき、駅前喫茶に入った。別れの前の余韻に浸っているとき 川上君がふと藪から棒に、「日本に天皇制を残したのは悔やまれる」と一言つぶやいたのがいまだに耳に残っている。そのほかにもUnited Nationsを外務省が戦後に国際連合と訳したのは戦争に負けたことを巧妙にごまかす詐欺のようなものだという。戦前日本で連合国と訳していたのも United Nationsで同じもの。ようは戦勝国連合そのものなのだ。

● 2008年9月10-11日、鍋倉高原パート2

ここで西高の一人が自治労の事務局にいたと聞き、 川上君は自分が役人にならず新聞社を選んだのは自分より優秀だった弟が全学連の活動家であったためとしみじみ語った。弟は後に自治労の研究者になったという。



2008/9/11 鍋倉高原森の家 写真4


●  2008年11月22日 綾瀬バーベキュー会



2009/7/26 綾瀬バーベキュー会 写真5



川上書簡集


● インドについて

1. カラチにて
2. インドの門からベナレスへ
3. 英語と鉄道
4. 紅茶とカレー
5. 沈まぬ太陽
6. アラカン山脈の向こう
7. バングラデシュ
8. さいごに一言

● 私記 回想のアフガニスタン

米軍の侵攻
ベトナムの二の舞
ザヒール・シャー元国王の帰国
クーデタ見ざるの記
カイバル峠
パシュトゥーン人
ペシャワル
文明の十字路
首都カブール
サラン峠
再びカイバル峠
仏教遺跡バーミヤン
アフガンと日本の関係

●   わが山登り

●   中国

2010/9/30に

中国でなくても、国際法などと言うものは、あって無きがごときものです。最終的には物事を決めるのは軍事力と経済力であることは、古来のすべてが証明して いる。「国際法とは処女膜のようなもので、破られるために存在する」といったのは、国際法の祖グロチウスだーーーーと言うのはうそで、国際法の講義を受け たとき法学部の学生の小生が言い出した言葉です。これは本当です。学者はこんなえげつないことは言わないし、自分の研究を否定するようなことはいいませ ん。国際的な不戦条約が締結されたのは、1928年(昭和3年)です。それ以後、どのくらい戦争があったか考えて見てください。第二次大戦後、一番沢山、 戦争をやっているのは、むろん米国です。国際関係は、経済力と軍事力が決める。こういう基本的なことを、特に軍事力について思考ゼロの日本は、いつになっ たら気づくのか。こういうことになることは前から予想できた。

と書いています。

●   裁判員制度

●   感 動を与える・・・

以上が私が朝日新聞本社のレストラン・アラスカで開催された吉井氏が呼び掛けた偲ぶ会で紹介した川上氏の片鱗である。


当日参加した人々からも感銘深いことばがいくつか紹介された。

朝 日新聞の2年後輩の伊藤三郎氏から川上君から聞いていたという東大受験の思い出話しが紹介された。

一緒に東大受験したX氏の結果も含め川上君が代表して当落を 連絡することになっていた。送られた電文は「花は満開、僕は涙」だったという。会の最後にそのX氏が登壇し、実はその電文は「おめでとう、僕は涙」であったと ばらしていた。川上君はすでに発信された電文をさらに推敲して自らいいふらしていたことがわかる。

実はX氏は理系志望だったのだが色盲が判明し、急きょ、文二志望に変えた。川上君のよう法科にゆける文一とはレベルが違うからこの結果は当然だという。ワ シントン総局時代のフライデー事件に言及し、あの後始末したのは私ですと。見栄を切った。いつもそうなんです。川上君とX氏は幼馴染のため、何回も絶交を言い渡されたがいつもまた彼 からスリスリとすり寄ってくるという関係だったと。

July 23, 2015


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