山また山の山の会

1993年から毎年2回、5月と10月に「山また山の山の会」が戸隠の中社界隈で開催されている。 昭和32年北高(現長野高校)卒業生のなかで通学困難な西山出身者らが始めた内輪の会とのこと。いわば「北ラス会」の一グループである。創立者の一人が亡くなってからは和田(光 )らに大久保(博)らが協力して山野を駆け回り、集めた山菜を肴とする懇親会として地道に継続している。メンバーの紹介によって参加が可能となる。秋にはキノコ狩りということのようだ。有志による野沢温泉スキー会もあるようだ。毎回ほぼ20名集まっているという。幹事は北沢(栄 )が勤めている。

記念皿 北沢(栄)

2005年5月21日の山また山の山の会

春の山菜の会は中社宿坊金輪院「今井」(Hotel Serial No.305)で開催された。斉藤先生、和田、増田、村松、伝田、中島、松木、村田、宮下、西沢、下平、竹内、徳武、川上、北沢、 大久保、山岸、西川、池田、市川、金丸、久保、鳥谷越、山口、青木ら21名が参加した。

金輪院「今井」前で記念撮影

2005年5月22日早朝は有志により戸隠探鳥会も行われ、戸隠高原ハイキングなどそれぞれ各様にハイキングを楽しんだ。

2005年10月15日の山また山の山の会

秋のキノコ会は、戸隠・越水ヶ原で開催されたが、風邪で参加できなかった。

2006年5月27日の山また山の山の会

春の山菜を楽しむ「山また山の山の会」は中社宿坊金輪院「今井」で開催された。 和田、増田、伝田、中島、松木、宮下、西沢、竹内、川上、北沢、宮尾、大久保、佐々木、池田、金丸、鳥谷越、中村、小笠原、青木の19名が参加した。小笠原が初参加であった。

参加前に幹事の北沢(栄)が記念皿を制作した窯を見せてもらった。灯油を使う本格的なものである。佐々木の車に便乗して会場に到着。16:00に飲み始め、24:00まで飲みっぱなしであった。朝は6:00起きで宿坊で執り行われる朝の祈祷に全員参加。

記念皿を制作した窯

中社宿坊金輪院の朝の祈祷

2006年5月28日は昨夜来の雨が上がるまで10:00まで待ち、戸隠高原ハイキングを楽しんだ。

2006年10月14日の山また山の山の会

会場は越水ケ原のヒュッテ「やちぼうず」。(Hotel Serial No.372) 斉藤先生、和田(光)、阿部、伝田、松木、村田、宮下、下平、清水、川上、北沢(栄)、宮尾、大久保、池田(司)、北澤、小笠原、綿貫、青木の18名が参加した。

和田が苦労して採取した岩茸などの珍味を賞味した。岩茸は「茸」の字を付けられてゐるが、地衣類であって、菌類の茸では ない。標高800m以上の高所の石英粗面岩や硅岩などの垂直面に張り付く様に生えてゐる。一糎成長するのに2〜3年はかかるという。「岩茸採りに宿貸す な」の云い伝へがある危険な作業である。和田はロープを使わずして採取したという。もう一生食べることはできないであろう。

越水原のやちぼうずにて

和田が加齢でもう山菜取りは無理だという。そこで来年5月は大久保、池田、小笠原、青木の4名が山菜取りの弟子入りをして採集を手伝うことになった。和田は国産バイクは全て乗ったが、まだハーレー・ダビッドソンは未経験のため次回持って来いという。これも約束した。

15日は戸隠高原ハイキングを楽しんだ。

2007年5月19日の山また山の山の会

山菜採取係りの和田(光)が加齢を理由に本会の中止を申し出た時、それでは採集を手伝おうと数人が手を上げた。しかし今回、実際に採集に参加したのは3名であった。大久保と青木が18日から戸隠の和田宅に泊まりこみ、中村(晴)が19日の早朝4:30和田宅にやってきた。昨年は頭のクマが退治されたという地帯なので米国製のカプサイシンスプレーを用意した。もう歳だということでハーレー・ダビッドソンを持って行く必要はなかった。

カプサイシンスプレー

18日の午後、下平の車で和田宅に着いた大久保と青木は、和田に従って、昨年ロープがなかったので採集できなたっかという岩茸を採集に鬼女紅葉伝説の残る荒倉山に でかけた。荒倉山は戸隠と鬼無里の境を成している。岩茸の生えている岩は荒倉山の霧見岳(1,400m)の峰の一つである。車を林道に停め、道無き峰を霧 見岳に向かって上っていくと巨大な岩が小ピークをなしている。和田が用意してきた登山用のザイルを岩の上に生えている赤松に引っ掛けて、斜度70度の岩の 斜面に下り、50年物の岩茸だと言いながら採取した。直径が5センチはある巨大なもので、市場価格はウン万円もするものだが、酢の物にしても決して旨いも のではない。高所恐怖症の身にとってはなにも手伝うことはない。岩茸の後は、舞台岩、竃(かまど)岩、鬼女紅葉の岩窟を見物しながらミヤマイラクサ、ソバナとヤマブドウの採取をした。和田はミヤマイラクサは素手で握ってはいけないという。トゲがあるためである。紅葉の岩窟前で多量にあった。

飯綱山から荒倉山を望む (画面中央 )

和田は持ち帰って読めと「わが山釣りと山菜賛歌」、「戸隠の鬼たち」、「紅葉そなたは」の3冊の本を用意していた。

夜は事前に用意されていたミヤマイラクサの卵とじ、コシアブラの若芽、ウド、ヤマブドウの 花芽の天婦羅、オオバギボシの 茎のゴマアエ、ネマガリタケの筍のサバ味噌汁などの山菜に舌鼓を打ちながら和田の思い出話を拝聴する。なかでも借金してワサビ栽培をはじめたのだが、台風 の土砂崩れで全てを失ったというワサビ栽培の失敗話と中越地震の後に男児が車の中から救出されるもようをTVで観て感激し、一念発起して戸隠の仲間に声を かけ、1,000食分の戸隠蕎麦を用意してトラックで小千谷町(おじや)に出かけ炊き出しをした逸話がよかった。

一夜明けて19日の早朝4:30に長野からかけつけた中村の車で新潟の能生(のう)まで雨のなか出かけた。北陸自動車道直下の川岸の崖に自生するオオバギボシの採集のためである。45度の急斜面で表土がズリ落ち、岩盤が露出するという悪条件下での作業で難渋した。

取って返して大毛無山(1,492m)の山麓で、ネマガリタケの筍とワラビを採集した。

ついで妙高山(2,300m)と火打山(2,462m)の北側の沢に軽トラックで乗り入れ、ウド、ミヤマイラクサ、ヤマブドウを採集した。プロの山菜採り とおぼしき男たちがヘルメットを着用してリュックを山菜で一杯にして山を降りてくる。軽トラックの長野ナンバーを見て、「入山料を徴収しなければいけない な」とつぶやく人も居た。

用意していった登山靴はあきらめて長靴を借りた。用意していったゴアテックスの上下は泥だらけとなった。

19日の夕刻、中社宿坊金輪院「今井」に集まった面々は和田、伝田、村田、下平、竹内(養)、北沢(栄)、 池田(栄)、大久保、小粥、池田(司)、中村(晴)、北澤、小笠原、綿貫、 白川、野村、和田(忠)、青木の18名であった。恒例の山菜を酒の肴にした宴会は夜半まで続いた。

20日は6:00起床、6:30宿坊で執り行われる朝の祈祷に全員参加。参加者は飯綱山登山組み、大座法師池までの散策組み、山菜採集組みの3つに分かれてそれぞれが楽しんだ。

2010年7月23日

本会の実質的リーダーは和田仙人こと和田光二君でしたが2010年7月23日突然の事故により亡くなりました。ハーレー・ダビッドソンは未経験のため次回持って来いというので約束していたが、それを果たせず残念。

和田光二君

May 27, 2005

Rev. ocgtober 14, 2015


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