信州

海津城・川中島古戦場

2007年10月13-14日、高校卒業50周年記念の同期会と物故者法要の翌 日、松代の海津(かいづ)城跡と川中島古戦場の訪問を愉しんだ。2009年5月18日には古牧小学校の4回 目の同級会が松城で開催され再訪した。

 

葛尾城(かずらお)城跡と笄(こうがい)の渡し

物故者法要出席は2日まえに自宅の庭で肋骨損傷事故にあっているので自粛し、ゆっくり 上山田温泉にむかった。上田駅で新幹線から「しなの鉄道」に乗り換える。坂城を過ぎると「しなの鉄道」は葛尾トンネルに入る。このトンネルの上が1553 年の第1次川中島の戦で 戦国の武将村上義清が上杉謙信に助けを求めて脱出した葛尾(かずらお)城があったところだ。千曲川がこの城 跡の真下をえぐるように流れていてそこに「こうがい橋」がかかっている。義清の妻がこの淵を舟で渡ったところで武田側にみつかり、落命したところである。 武田をおそれた船頭に笄を与えて舟を出させたため「笄(こうがい)の渡し」とよばれている。義清の本隊は雨 宮(あめのみや)の浅瀬を渡って越後に渡った。

戸倉駅から上山田温泉の清風園までは定期バスを利用。

上山田温泉の西側の丘の上には荒砥(あらと)城跡がある。第1次川中島の戦で出馬した上杉謙信が武田と攻防 を繰り広げた城である。館、見張り台、兵舎、門などが復元されている。

 

塩崎城跡・布施の古戦場

同期会で 仲間と歓談した翌日、グリーンウッド氏は信濃巡礼グループに 参加することにしていたのだが、肋骨骨折のため、海津城・ 川中島古戦場探訪のグループに変更した。とはいえ海津城に向かうバスは巡礼グループにハイジャックされて田毎の月の麓、第14番札所長楽寺入口まで大回り することになった。歩く主義の鬼隊長が不参加のため、キセルをして楽をしようという幹事の魂胆であると見受けた。6番観龍寺からのルートをキセルしたとみ ても良い。

14番札所長楽寺入口までカージャックした巡礼グループ

ところで14番長楽寺は田毎の月で有名。18番長谷寺から更に北の21番観音堂にいたる山沿いの道には第5次川中島合戦の塩崎城跡と第1次川中島合戦の布施 の古戦場の中を歩く。塩崎城は 長谷寺の西背後に聳える標高560mの尾根頂部に築かれている。現在長谷寺から続いている登山道は東端の曲輪の一段上に付いているが、この部分は石積があ り、虎口のようである。

更に時代をさかのぼると室町時代の1399年には小笠原長秀が将軍足利義満から信濃国守護に任命された。1400年7月 3日、京都を出発した小笠原長秀は同属の 大井光矩(佐久)のもとを経由し信濃の有力者である村上満信には特に使者を送って協力を求め、東北信の国人領主に対しても守護としての政務開始を通告。そ の中心地である善光寺に一族郎党200騎余を従える煌びやかな行列を組んで入る。そして信濃の国人領主達を召集して対面する。この時の対面は、相当に高圧 的なものだったと伝えられている。結局、小笠原長秀とこれに反発する国人衆との合戦が始まった。

小 笠原長秀は、赤沢対馬守(満経)を守護代に任じ、赤沢対馬守をはじめ赤沢一族は守護小笠原方として出陣。守護方は横田城(現在の篠ノ井の東900m)に陣 をとったが、村上、高梨、井上 等、国人衆の反乱軍の方が大勢力となったため、撤退して塩崎城(18番長谷寺の北西300m)に籠ろうとする。しかし、撤退中に攻撃を受け、長秀は塩崎城 に逃げ込んだものの、守護勢の多くは進路を絶たれ、大塔の古城(篠ノ井駅南南西600m)に立て籠った。大塔城には兵糧もなく、守護勢は国人衆の攻撃に よっ て潰滅。赤沢一族の赤沢駿河守は討死、塩崎城も国人衆に攻め立てられたが、和議が成立して長秀は京都に逃げ帰った。結果として長秀は守護職を罷免されて小 笠原氏の勢力を衰えさせる。

大塔の古城の場所は「しなの鉄道」西の老人福祉施設博仁会桜荘の西側、岡田川との間に挟まれた「大当」集落に 比定されている。しかしここは住宅地で、城址を示すものは全くない。かつては水田の中の微高地であったらしく。ほぼ方形に微高地の形が残っているだけ である。おそらく、この微高地沿いに土塁が巡り、水田が堀跡であったようである。もう一つの候補地はここから北西900mにある「二柳城」であるとされ る。城址には二柳神社が建つ。ちょうど、篠ノ井西小学校の西側にあたる。この二柳上の西400mほどに夏目城がある。更に西の山に川柳将軍塚古墳がある。

つまり、この合戦は、現地の事情と世の中の趨勢を把握できないプライドだけが高い中央官僚である小笠原長秀が、県知事(明治時代の官製知事?)に相当する 信濃守護になったので、喜び勇み有頂天になり、強引に政策を推し進め、挙句の果てに現地の反発を招き、自爆した事件である。これを大塔(お おとう)合戦とよぶ。

1463年には「応仁の乱」が勃発し、戦国時代に突入するのだ。主要な戦場となった京都は灰燼と化し、ほぼ全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。

善光寺平ではいまでも葬式などのとき、小笠原流でやりましょうとだれかが提案すると、古式にのっとって杯のやり取りなどしている。これなど小笠原長秀がも たらした京都の儀式を再現したものなのだろう

 

雨宮の渡しと妻女山

巡礼グループを下ろしたバスは平和橋で千曲川を渡り、屋代から谷街道にはいって雨宮の渡し近くを通過する。昔はここは河原だったそうだが、川筋が北に移行 してしまったので千曲川はみえない。雨宮の渡しという石柱が立っているが、これは亜細亜大学の飯島名誉教授のお父さんが建てたものだと聞いた。

バスはやがて上杉謙信が1561年の第4次川中島の戦で陣を張った妻女山の真下を通る。

谷街道と長野電鉄河東線は平行している。旧信越線は千曲川に鉄橋をかけなければならなかったため、河東線の方が先に敷設されたという。

 

海津城跡・文武学校

海津城は江戸時代は真田藩の城となったが、戦国時代は武田が第4次川中島の戦のとき、山本勘助に構築させたものだという。2000年にここを訪れた時は崩 れた石垣があるのみだったが、本丸だけは観光用に修復されて城跡らしさをみせている 。しかし本丸以外は埋め立てられて住宅地となってしまった。

松代文化財ガイド氏によれば 海津は萱津(かやづ)がなまったものという。カヤが生えた千曲川の渡しがあったためという。信玄が作ったと いう証拠は三日月掘があるためそれとわかるという。

上杉謙信が妻女山の山城にこもって一ヶ月近くもにらみ合ったまま降りてこないことに焦った山本堪助が「きつつきの戦法」 を進言した。この戦法は軍を二つに割き、一隊が妻女山の上杉軍を襲い、他の一隊は千曲川を渡り、川中島に布陣し、狩り出された越軍が川を渡るところを八幡 原に待機していた隊がとどめを刺すというものであった。しかし、謙信はいち早くこの キツツキ戦法を察知し、霧を利用して妻女山を下り、千曲川を渡って八幡原の西に布陣を完了していた。

鞭声粛々夜河

暁看千兵擁大牙

遺恨十年磨一剣

流星光底逸長蛇

  頼山陽

一方、武田軍も霧の中、八幡原に布陣した。両軍の決戦となった9月10日の早朝、上杉軍は八幡原をめざして 西側から殺到してきた。勘助をはじめ武田軍は作戦の失敗からくる綻びを収拾しようとつとめたが、いかんともしがたく、信玄の実弟信繁が討たれ、ついには勘 助も討死を遂げたのである。

海津城本丸入口と西方に見える妻女山

海津城前には真田宝物館・真田邸・文武学校がある。(Museum Serial No.255)真田宝物館は 昭和41年に12代当主幸治氏が伝来の道具類を一括町に寄贈したものいを展示している。真田邸は9代藩主幸教が母を松代に迎えるために建設したもので幸教 の隠居所となった。文武学校は8代藩主幸貫が佐久間象山(ぞうざ ん)の意見をうけて蘭学・西洋砲術を取り入れた藩校の建設に着手し、9代藩主幸教が完成させたものである。明治維新においてこの砲術は会津 攻めに威力を発揮し、会津には恨まれた。

文武学校 2009/5/18撮影

 

山本堪助の墓

海津城を後にし、山本堪助の墓に向かう。河東線の金井山駅の界隈は柴村とよばれ、かっては柴石の産地であった。松代藩第一代の藩主真田伊豆守信之(のぶゆき)はこの柴村に隠居したという。その隠居所跡は大峰寺として柴村に残っている。

山本堪助の墓は今は千曲川の河原にある柴阿弥陀堂跡に残っている。柴阿弥陀堂は谷街道から「広瀬の渡し」を渡って善光寺にゆく参詣路にあった。1400年 代に親鸞の教えを携えて信州にやってきた9世吉池彦四郎重行により、この地に建立されたものである。

1553年の第1次川中島の戦の時、信玄はここで戦勝祈願し、1561年の第4次川中島の戦の後、陣小屋を寄進し、堂宇を大きく建て替え、両軍の亡くなっ た士卆全員の霊を祀った。謙信もこれを聞き大いに満悦して家臣を遣わして阿弥陀堂に礼拝させたという。真田家統治になっても歴代藩主に庇護されてきた。

山本堪助の墓は初めは討ち死にした陣ヶ瀬の東の「堪助塚」にあったが、1739年、松平藩家老鎌原重栄らにより、遺骨とともに阿弥陀堂に移されたものとい う。 「山本道鬼の墓」と書かれた墓石の礎石には山本堪助の一生を概観した漢文が残されている。道鬼とは信玄出家の折、一緒に出家した堪助の僧号である。

山本道鬼居士墓

大正から昭和にかけて千曲川築堤が行われ、阿弥陀堂が堤外地に入ってしまったため、阿弥陀堂は堤内地の吉池家の私有地に移設し、山本堪助の墓だけそのまま 河原に残されたという。NHKのドラマのおかげで観光客が多数訪れ、ここを管理している吉池氏は説明に大忙しというところであった。

 

典厩寺(てんきゅうじ)

山本堪助の墓を後にし、千曲川を渡って典厩寺に向かう。信玄の実弟信繁の遺骸は鶴巣寺に埋められ典厩塚と呼ばれた。真田信之が後にこの寺を典厩寺と改め、 碑を建立した。また真田幸村の五輪搭もその横にある。

対米開戦を決断し、A級戦犯に指名された海軍元帥永野修身(おさみ)夫 妻が昭和19年5月お手植の夫婦青柳というのが寺の片隅にあった。 四国出身の人がどうしてここに縁があったのだろうか?

 

八幡原(はちまんぱら)

NHKが風林火山でなぜか「やわたはら」と呼ぶ八幡原は上杉謙信が武田信玄に一太刀浴びせた第4次川中島の戦のとき信玄の本陣があったところである。武田 方の海津城主高坂弾正(こうさかだんじょう)が両軍の将兵の6,000余人の遺骸を敵味方の別なく集めて 葬ったという屍塚(首塚)が二つ残っている。昔はもっと沢山あったというが現存するのはこの二つだけである。

NHKアナ  はちまんぱらを やわたはら   座一

首塚のことを知った上杉謙信は大変感激し、「われ信玄と戦うもそれは弓矢であり、魚塩にあらず」とただちに塩不足になやむ信玄に塩を贈り、恩に報いたと言 われ、「敵に塩を送る」という言葉が生まれたという。

八幡原の首塚

観光客向けに武田軍の中間頭原大隅が信玄の持ち槍で馬上の謙信を突いたが鎧に阻まれてはずれ、 二度目に振り回したが、馬の頭を叩いてしまったので驚いた馬が走り去ってしまった。悔し紛れに近くにあった石を槍でつき通したという石が「執念の石」とし て残っている。真偽の程は知れない。 地元のボランティアの案内人が言うとおり、槍先が突き出たほうから覗いてみたがこれが何を意味するのか分からなかった。英語ではRock of Regretとしてある。英語の方が真意を表している気がした。「執念の石」はRock of Gutsとでもいえるが、失敗したのだから、やはりリグレットすなわち「無念の石」であろう。

八幡原にはグリーンウッド氏の母方の先祖から出た狩野派の画家、月耕を顕彰する月耕翁之碑と月廼亀麿(つきのかめまろ)月廼亀作の歌碑が建っている。歌碑には月廼亀麿(つきのかめまろ)は 姓を田中、名を信達。通称は亀太郎といい、長野市小島田の人である。代々松代藩に仕え、文武に卓越していた。藩の政策に関して、藩主・真田幸教(ゆきのり)と 対立するようになり、亀麿は和歌俳句へ興味を転じてしまった。狂歌においては最も軽妙な才能を発揮して名声を得るほどになった。その子、亀作も雅号を亀守 といい父子ともども風雅の道で知られた。川中島古戦場の歌碑は表面と裏面にそれぞれ田中父子の和歌を刻んだものであるとあり、二人の歌が紹介されている。

跡しのぶ川中島の朝あらし いぶきのさ露おもかげに見ゆ    月廼 亀麿

月影の入にし後もほととぎす ひとこえ残す小島田の里       月 廼亀作

月廼亀麿月廼亀作の歌碑

八幡原から千曲川に少しもどったところの「おぎのや」の構内に胴合橋(どあいばし)というところがある。山 本堪助が東福寺泥木明神( 冬季オリンピックスタジアム跡地にあった堪助宮跡地)付近で戦死したのち、堪助の家来が敵から首を奪い取り、胴と首を合わせたところという。信玄の実弟信 繁の首と胴をあわせたという説もある。

ここに「山勘」という言葉は山本堪助の省略形との説明もあった。

「おぎのや」で釜飯の昼食をとり、長野駅で解散した。

この旅の後、実家に帰って、持参した「戦略の本質 戦史に学ぶ逆転のリーダーシップ」を読む。

October 17, 2007

Rev. August 16, 2015


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