本名=喜多一二(きた・かつじ)
明治41年1月1日(戸籍上)—昭和13年9月14日
享年29歳
岩手県盛岡市本町通2丁目6―24 光照寺(浄土真宗)
川柳作家。石川県生。石川県河北郡(現・かほく市)高松町立高松高等小学校卒。8歳で父親が病死、望んでいた師範学校進学はかなわなかった。大阪の町工場に就職し、プロレタリア川柳の影響を受け、昭和3年全日本無産者芸術連盟に加わる。12年「川柳人」に発表した作品が治安維持法違反に問われて留置され、獄中で病死。『鶴彬句集』『鶴彬全集』などがある。
暴風と海との恋を見ましたか
墨をする如き世紀の闇を見よ
退けば餓ゑるばかりなり前へ出る
勲章やレールでふくれたドテッ腹
地下へもぐって春へ春への導火線
みな肺で死ぬる女工の募集札
ざん壕で読む妹を売る手紙
暁をいだいて闇にゐる蕾
万歳とあげて行った手を大陸において来た
手と足をもいだ丸太にしてかへし (当時〈丸太〉は負傷兵に対する隠語)
反戦川柳作家鶴彬、昭和12年、治安維持法違反に問われて留置された野方署第六房には平林たい子も留置されていて、〈川柳中興の祖といわれる井上剣花坊に師事して、同氏が亡くなってからも、夫人を助けて雑誌を出していた。ここに入れられる動機になったのは、その雑誌に、「万歳とあげて行った手を大陸において来た」といった反戦川柳をのせたことからだった。(中略)特高室ではじめて見せられたときには、思わず自分の憂鬱を吹き飛ばして大笑いした。この人心逼迫の戦時に、そんな大胆な川柳を堂々と雑誌にのせる人間がいたとは〉と戦後に書き残している。昭和13年8月下旬、赤痢を罹患、豊多摩病院に移されたが、実母寿ずが知らせを受け駆けつけた9月14日午後3時40分頃に息を引き取った。
盛岡駅から歩いて30分、ずいぶんと歩いてやっとたどり着いた寺町の光照寺には「手と足をもいだ丸太にしてかへし」の句碑はあるものの肝心の墓地がどこにも見当たらず唖然としたのだが、住職に尋ねて訪れたのは、すぐ近くの本誓寺手前の通用門を入った先にある光照寺墓地。墓域の奥のほうに「鶴彬の墓」と刻された石柱の脇に昭和14年7月建之の「霊塔」と力強く彫られた喜多家の墓があった。側面に川柳界の小林多喜二ともいわれた喜多一二の名と没年が刻まれている。鶴彬の遺骨を引き取り、故郷石川県高松町から遠く離れた盛岡の地に、特高警察に見張られたまま埋葬したのは、ここで染物業を営んでいた鶴彬の兄、喜多孝雄であったが、その兄も昭和33年6月、51歳で没して同じ墓碑に眠っている。
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