土屋文明 つちや・ぶんめい(1890—1990)


 

本名=土屋文明(つちや・ぶんめい)
明治23年9月18日(戸籍上は1月21日)—平成2年12月8日 
享年100歳(孤峰寂明信士)❖文明忌 
埼玉県比企郡ときがわ町西平386 慈光寺(天台宗)



歌人。群馬県生。東京帝国大学卒。明治41年伊藤左千夫宅に寄寓、斎藤茂吉らを知る。大正6年『アララギ』選者となる。松本高等女学校校長などを務めながら作歌活動をつづけ、14年第一歌集『ふゆくさ』を刊行。昭和5年『アララギ』の編集発行人となる。歌集に『山谷集』『韮青集』『青南集』などがある。



 



桐の葉の広きをしきて児(こ)はすわり母をも共にすわらせにけり    

裸身にて蚊を焼く吾や蔑みし父にいくらも変わらざりけり

吾がもてる貧しきものの卑しさを是の人に見て堪へがたかりき      

争ひて有り経し妻よ吾よりはいくらか先に死ぬこともあらむ

小工場に酸素熔接のひらめき立ち砂町四十町夜ならむとす        

にんじんは明日蒔けばよし帰らむよ東一華の花も閉ざしぬ
 
時代ことなる父と子なれば枯山に腰下ろし向ふ一つ山脈

この谷や幾代の飢に痩せ痩せて道に小さなる媼行かしむ         

死後などは思ふとせざる父と子の間の母は何を思ひけむ

この道にやうやく歩む汝なりき立ち変るとも道は行くべく



 

 歌壇の最長老として100歳の長寿を保った土屋文明のいう健康の秘訣は〈悪口、昼寝、嫌なことをしない〉ということであった。
 最晩年に至ると、『アララギ』の巻頭に載る作歌が毎号のように目立って少なくなってきた。100歳の誕生日を迎えてまもなくの平成2年10月、東京・千駄ケ谷の代々木病院に入院する。それからの2か月余は故郷上州上郊村(現・高崎市)の思い出話に終始して、先に逝った妻テル子の面影を追う日々であった。
 ——〈枯れし畦一人歩み行く少年誰ぞ夢は今宵も言葉なし〉、平成2年12月8日、〈最期の呼吸までしっかりなしおえ、苦痛の様子は何も見られず、自然にさからわない静かな峻厳な死であった〉と長女の小市草子は記している。



 

 妻テル子の死によって、昭和49年に死んだ長男夏実の遺骨を京都から引き取り、親子三人の墓をつくるべく比企の板東観音札所慈光寺にそれを定めた。
 都幾川にそった道を折れ、勾配のきつい参道に入っていくと、道ばたにはまばらな曼珠沙華が弱々しい姿勢を立たせていた。鳴き疲れた蝉や名も知らぬ鳥、松虫、鈴虫の声、群生する著莪のなかに咲く露草、けなげに飛び交う二匹の蝶。蜘蛛の巣が金糸のように光っている。ゆるやかに湾曲した坂道に映る葉影、深まる樹々のなかに小さな墓地があった。三人の名が刻された平板な洋風墓。
 〈亡き後を言ふにあらねど比企の郡槻の丘には待つ者が有る〉と歌った文明もようやくにこの碑の下に眠っている。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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