橋本多佳子 はしもと・たかこ(1899—1963)


 

本名=橋本多満(はしもと・たま)
明治32年1月15日-昭和38年5月29日 
享年64歳(心華院瑞岳梅馨大姉)
大阪府大阪市阿倍野区阿倍野筋4丁目19―115 大阪市設南霊園1区3 




俳人。東京府生。菊坂女子美術学校(現・女子美術大学)中退。大正11年杉田久女を知り、俳句の手ほどきを受け、14年「ホトトギス」に投句する。昭和4年大阪に移り、以後山口誓子に師事。10年「馬酔木」に参加。16年第一句集『海燕』を刊行。23年誓子の「天狼」が創刊され同人として参加。のち「七曜」を創刊し主宰。ほかに『信濃』『海彦』『橋本多佳子全句集』などがある。







 

乳母車夏の怒涛によこむきに

夫恋へば吾に死ねよと青葉木菟

雪の日の浴身一指一趾愛し

いなびかり北よりすれば北を見る

雪はげし抱かれて息のつまりしこと

月光にいのち死にゆくひとと寝る

罌栗(けし)ひらく髪の先まで寂しきとき

蛍籠昏ければ揺り炎えたゝす7

月一輪凍湖一輪光りあふ

白桃に入れし刃先の種を割る



 

 〈橋本多佳子さんは、男の道を歩く稀な女流作家のひとりである。〉と、師の山口誓子が評した橋本多佳子の俳句人生、杉田久女には俳句の恐るべきことと格調の高さを学び、誓子には鍛え磨かれた。昭和12年に夫豊次郎と死別、16年に第一句集『海燕』を刊行したあとは戦時色が濃くなり句作は途絶えがちになったが、戦後の21年に西東三鬼、平畑静塔と三人で始めた奈良俳句会が転機となった。〈奥様時代の私の世界は完全に吹き飛ばされた。私は覚悟をした。厳しい二人を向こうにして悪戦苦闘することによって自分を創り直さう、知らぬ世界を知らうとした〉と後述するように、その後の多佳子は男の道をひたすらに歩いたのだったが、昭和38年5月29日午前〇時51分、肝臓がんのため大阪回生病院で死去した。



 

 大阪商工会議所初代会頭・五代友厚や元朝日新聞社社主・村山龍平などの墓所もある大阪天王寺駅に近い広大なこの霊園のひときわ大きな区画、古色とした石柱門の正面にある西洋式の「橋本家累代之墓」、朝の強い日差しを背に受けて静かに坐する墓碑にしばらくの間手を合わせながら、私の散歩コースの一つになっている多佳子の生家があった本郷区龍岡町(現・文京区湯島)のあたりや森鴎外の『雁』の舞台になった無縁坂の登り口にあった魚屋を多佳子が幼いころの思い出として懐かしんでいた文章をどこかで読んだ記憶が蘇り、また多佳子が昭和30年に建てた浅草山谷掘り近くにある菩提寺遍照寺の両親と妹が眠るつつましやかな墓にお参りしたことなどを思い浮かべていた。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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