浜田広介 はまだ・ひろすけ(1893—1973)


 

本名=浜田広助(はまだ・ひろすけ)
明治26年5月25日—昭和48年11月17日 
享年80歳(広徳院殿童愛錦謡居士)
神奈川県川崎市多摩区南生田8丁目1–1 春秋苑墓地中1区8–17 



児童文学者。山形県生。早稲田大学卒。大学在学中の大正6年『黄金の稲束』が大阪朝日新聞の懸賞お伽噺に入選。以降、童話作家を志す。10年童話集『椋鳥の夢』を刊行。12年より作家に専念。その童話作品は「ひろすけ童話」とよばれた。『泣いた赤鬼』『雪のふる国』などがある。






 

 がい燈は、つぶやきました。「もうもう、これでかまわない。星のように見えなくたっても、おれは、ただ、だまって光っておればよい。それが、おれのつとめなのだ。このままで、この一生が、おわってしまう。それでよい。おれのやくめは、それでよい。」
(中略)
 ふと「男の子は、まっくらな雲のきれまに、星をみつけていいました。
「あの星よりも、明かるいなあ。」
そういう声をききつけて、がい燈は、おもわず、ガタンとゆれました。じぶんで、それにおどろくとたんに、
風がはげしく、ふきつけたのでありました。けれども、いっとき、その風にぐっとこらえて、がい燈は、われをわすれてさけびました。
「かなった。かなった。おれのねがいが。」
その夜、はげしく、秋のあらしは、ふきあれました。雨も、ざあざあ、ふりつけました。あくる朝、あらしは
やんで、よわよわしい日が、さしていました。そして、
こうじのまがるところに、がい燈は、根もとからたおれていました。
「おや、ここにも、がい燈が、たおれている。」
 と、道をとおる人たちは、ただ、そう思って、がい燈をまたいで過ぎていきました。

                                              
(ひとつのねがい)



 

 人間の善意を本質ととらえ、友情、自己犠牲、孤独、不安、自然、ふるさとや母への愛などが渾然一体となった美しい童話、「日本のアンデルセン」と称えられ、親しまれてきた「ひろすけ童話」。
 浜田広介は昭和48年11月17日、前立腺がんのため80歳で永眠するが、一貫して書き続けた諦観的イメージは、子供のための童話というよりも、子守歌がわりに読み聞かせている母親のための童話であったのかも知れない。
 〈人間のさびしいすがたを、児童諸君にそれとなく知らせるということも、わたくしは、むだではないと思います。(略)孤独の感じをあじわうことから、人間同士になくてはならない親しみ合いが、だいじなものであることを、児童諸君は、おのずからに知るであろうと、わたくしは考えているのであります〉。



 

 小学3年生の時、学芸会で演じた『泣いた赤おに』の作者が浜田広介だと知ったのはずっと後年になってからであった。広介のいう孤独や自己犠牲を理解するには幼すぎる年齢だったように思う。
 生田丘陵の秋霜の降りた土庭、一匹の蟻んこが豆粒ほどの小石のまわりを何回ともなくまわっている。餌を探しているふうでもなく、ねぐらに帰るのでもなく、ただぐるぐると。やがて、勢いよく傍らの巨きな石塊を登り始めた。〈花ふくらめば 影やはらかに〉と彫られた碑の、どうやら「花」という窪みの横で一休みを決め込むようだ。
 「濱田家之墓」、晩秋の一光景、時の過ぎゆくのも忘れて私も無抵抗に佇んでいた。
 郷里山形の高畠町一本柳にある浜田家の菩提寺・満福寺にも広介の墓と歌碑があるという。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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