萩原恭次郎 はぎわら・きょうじろう(1899—1938)


 

本名=金井恭次郎(かない・きょうじろう)
明治32年5月23日—昭和13年11月22日 
享年39歳(宝積院哲茂恭謳居士)
群馬県前橋市石倉町4丁目6–15 林倉寺(天台宗)



詩人。群馬県生。旧制前橋中学校(現・前橋高等学校)卒。金井家の養子となる。ダダイストとして活躍、のちアナーキズム運動に傾倒。大正7年川路柳虹の『現代詩歌』に参加。12年『赤と黒』の創刊に参加。14年第一詩集『死刑宣告』を刊行。昭和7年『クロポトキンを中心とした芸術の研究』を創刊、『もうろくずきん』を発表。詩集『断片』などがある。





 

 その深い谷底には、見えないがぷすぷす清水が湧いてゐるだけで樹木や草が一面鬱蒼としてゐる。春には花をつけて鳥が卵をふかしてゐたり、秋になると樹々が紅葉して美しい景色だ。実に何十年かに一人か二人かがこの谷に下りて行った。下りて行ったものは不思議に再び崖を這ひ上って帰るものはなかった。やぶの中に怪獣か怪鳥がゐるのだろうとも伝はった。私は私として堪へられなさや、悲しさをこの深い計ったことのない谷にもって来ては棄ててゐた。そして何とも言へぬ匂ひを底から吹き上げて来る風から嗅ぐのであった。然しどうしたことか、そこにほちっとも塵芥といふものが溜まらなかった。私も最後はこの谷に下りてゆき帰らない人となりたいと思ふのであった。                                          

( 谷 )



 

 血縁関係ではなかったものの、同郷、同姓の萩原朔太郎を兄のように慕っていた萩原恭次郎が急激な溶血性貧血で死んだのは、昭和13年11月22日午前0時15分、39歳の若い命であった。国家総動員法が公布され、中国戦線は拡大の一途を辿っており、日本は戦争一色に塗りつぶされ始めた頃であった。当然、アバンギャルドでありアナーキズム運動に傾倒した思想的注意人物であった恭次郎は監視対象となっていたのだが、宿痾の胃病に悩まされ続けていた彼には絶叫するしか術はなかったのだ。
 〈厳冬の地は壮烈な意志に凍りついてゆく 俺は酷烈な寒気に裸の胸をさらしてゐる 来い!来い! 鋼鉄の冬よ何物も清く氷結させる勇者よ 俺は只一すぢの矢となる〉。



 

 上州前橋の初夏。風もなく、まことに暑い日であった。前橋文学館からずいぶん歩いてきた。やっとたどり着いた群馬大橋の下に、利根川が白波を際だたせて激しく流れている。県庁の向こうには赤城山も見える。たもとに建つ詩碑に寄り添って缶ジュースなどを飲みながら一息をついた。〈汝は山河と共に生くべし 汝の名は山岳に刻むべし 流水に画くべし〉。この碑もやがては赤城おろしに吹きさらされて、詩人の意志を凍らせるに違いない。恭次郎が住んだ石倉はもうすぐ近くだ。まもなく訪れた菩提寺の「金井家之墓」、すべてが新しく、淡きひかりして過去碑の刻日さえも昨日のことのように思われる。
 〈高き山々に吹雪きする見れば、白き雪々を啖いて生きしわが心は熱す〉。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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