長谷川時雨 はせがわ・しぐれ(1879—1941)


 

本名=長谷川ヤス(はせがわ・やす)
明治12年10月1日—昭和16年8月22日 
享年61歳 
神奈川県横浜市鶴見区鶴見2丁目1–1 総持寺中央ホ–1–3(曹洞宗)



劇作家・小説家。東京府生。秋山源泉小学校卒。結婚に破れた後、文筆活動をする。明治38年戯曲『海潮音』が坪内逍遙に認められ、逍遙に師事。三上於菟吉と再婚。昭和3年雑誌「女人芸術」を創刊・主宰。戯曲『覇王丸』『江島生島』、小説『旧聞日本橋』などがある。






 

 本名のお貞と、芳町時代の奴の名とあはせて、貞奴と名乗った女優の祖を讃するに、わたしは女優の元祖出雲のお國と同位に置く。世にはその境遇を問はず、道徳保安者の、死んだもののやうな冷静、無知、隷属、卑屈、因循をもって法とし、その條件にすこしでも抵觸すれば、婦徳を云々する。しかし、人は生きてゐる、女性にも激しい血は流れてゐる。人の魂を汚すやうなことは、その人自身の反省にまかせておけばよいではないか? わたしは道學者でない故に、人生に悩みながら繊い腕に惡戦苦闘して、切抜けてゆく殊勝さを見ると、涙ぐましいほどにその勇氣を讃へ嘉したく思ふ。
ああ!貞奴。引退の後の晩年は寂寞であらう。功爲り名遂げて身退くとは、古への聖人の言葉である。忘れられるものの寂しさ----それも貴女は味ははねばなるまい。然し貴女は幸福であったと思ふ。何故なら貴女は、愛されもし愛しもし、泣いたのも、笑ったのも、苦しんだのも、悦んだのも、樂しんだのも、慰められたのも、慰めたのもみんな眞剣であった。それゆゑ貴女ほど信實の貴い味を、ほんとに味わったものは少ないであらう。その點で貴女は、眞に生甲斐ある生活をして來たといはれる。わたしは此處に謹んで御身の光輝ある過去に別れを告げよう、左様ならマダム貞奴!
                                                        
(マダム貞奴)



 

 明治38年、読売新聞の懸賞に応募した戯曲『海潮音』が入選し、上演されたことによって劇作家として出発した。劇作家としての地位も確立し、無名の三上於菟吉と結婚。内助の功で人気作家に押し上げた。女性作家の発掘や育成、解放のため、商業雑誌「女人芸術」を創刊、主宰。夫於菟吉が脳血栓で倒れた時には献身的な介護と新聞連載の代筆もした。小説を書いては樋口一葉にとうてい及ばないと考え、劇作家として世の中に出ようとした長谷川時雨。
 最期の床で甥の長谷川仁に、一葉のことを書かなければならないと意欲を示していたが、そのまま昏睡状態に陥り、昭和16年8月22日午前3時43分、東京信濃町の慶応義塾大学病院で白血球顆粒細胞減少症により没した。



 

 ねこじゃらしの生えている土庭の塋域。台石に「長谷川」と刻まれた「先祖代々之墓」が二基と〈むさしのの われも土なり をみなえし 時雨〉の自筆碑がある。正面は父深蔵と母多喜らの墓。右手前にあるやや小振りの墓に、時雨と末妹で画家だった春子の遺骨が納められている。
 時雨は埼玉県北葛飾郡杉戸町木野川の共同墓地に夫三上於菟吉とともに合葬されているが、春子が昭和42年に亡くなったとき、甥の長谷川仁が三上家から分骨してこの墓を建てた。
 女人解放を目指して、林芙美子、矢田津世子、円地文子、佐多稲子、大田洋子ら多くの女流作家を世に送り出した雑誌「女人芸術」を主宰、気を吐いた彼女だが、今は谷向こうにある女学校の校庭で興じるテニスの音が響く庭の土となってしまった。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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