長谷川如是閑 はせがわ・にょぜかん(1875—1969)


 

本名=長谷川萬次郎(はせがわ・まんじろう)
明治8年11月30日—昭和44年11月11日 
享年93歳(高徳院殿彰誉硯香如是閑大居士)
東京都文京区向丘2丁目35–3 清林寺(浄土宗)



ジャーナリスト・評論家。東京府生。東京法学院(現・中央大学)卒。明治35年新聞日本に入社。日本及び日本人を経て、41年大阪朝日新聞社へ入る。のち『天声人語』欄を担当。大正8年大山郁夫と『我等』を創刊。昭和7年『日本ファシズム批判』を刊行。『日本的性格』『現代国家批判』などがある。






 

真赤な血が皮膚の外に送り出るとき、人々は飽かず殺し合う。
真赤な血が真自な皮膚の色を淡紅に染めて、その下を流れる時、人々は飽かず抱擁し合う。
この抱擁————血の温か味に蒸された、この抱擁を外にして、二人以上の人間がこの世に産れ出た理由が何処にあるであろう。
地上の悦楽は、そこに始まり、そこに終ると、人々は唄う。
けれども、その淡い血の色が、霜に染められた紅葉のように真紅に燃ゆると、人々は狂い出す。
その物狂わしさは、血を呑んだ獣のそれよりも恐ろしい。
血の兇暴は、強いものの前には鎮まる。何物も鎮めることの出来ないものは愛の兇暴である。
皮膚の下を流れる血は、皮膚の外に迸る血よりも恐怖である。
そこに二つの別なものがあるのではない、同じ「血」があるばかりである。
そこに二つの別なものがあるのではない、同じ「人間」があるばかりである。
                                    
(血のパラドックス)



 

 深川木場の材木商の子として生まれ、幼年時代は浅草で育った。
 晩年は80歳の記念に友人、知己より贈られた小田原の「八旬荘」なる閑居に暮らした長谷川如是閑。病弱が早死にとは限らないという見本のような生涯であった。
 幼少時から病弱な上に青年期には胸を病み、30歳まで持たないだろうといわれていたのだが、生涯独身を通し、酒も飲まず、煙草もやらず、「是ノ如ク閑ナリ」を誠に実践した生活ぶりによって93年もの長寿を得たのだった。
 昭和44年11月4日、腹痛を訴えて小田原市立病院に入院、病院にあってさえも気随気ままな性格は医師を困らせていたが、11日11時17分、静かに灯火は消えていった。



 

 東京・文京区、本郷通り沿いのこの地域は道の左右に江戸以来の古寺が林立している。そのうちの一寺、清林寺本堂裏の最奥、小学校の校庭を背にして、野球に興じる少年たちの声がネット裏から容赦なく降り注いでくる塋域。黒光りする御影石の碑面に周囲の墓影を映して「長谷川如是閑墓」は深としてある。「高徳院殿彰誉硯香如是閑大居士」。これ以上ないほど贅沢な戒名が刻まれている。
 小田原「八旬荘」の仕事机の上には「断而不行」の扁額が掲げられてあるということだが、〈断じて行わず〉。確固たる強い信念を見るおもいだ。
 80歳を越してからの心境を〈人の命斯くも短きは人の世を 永遠に新たにあらしむため〉と詠んだ「孤高の独創人」如是閑は、ここに眠る。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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