本名=長谷川伸二郎(はせがわ・しんじろう)
明治17年3月15日—昭和38年6月11日
享年79歳
東京都品川区上大崎2丁目13–36 高福院(真言宗)
小説家・劇作家。神奈川県生。小学3年生中退。一家離散で少年期から人生の辛酸をなめた。毎朝新聞を経て、都新聞記者となった大正13年『夜もすがら検校』を発表、出世作となった。脚本にも手を染め『瞼の母』『一本刀土俵入』などを発表。『日本捕虜志』で菊池寛賞を受賞した。

おはま そう—そうだよ。あたしにゃ男の子があったけれど、もう死んだと聞いているし、この心の中でも永い間死んだと思って来たのだから、いまさら、その子が生き返って来てもても嬉しいとは思えないんだよ。
忠太郎 別れて永え永え年月を、別っこに暮してくると、こんなにまで双方の心に開きが出来るものか。親の心子知らずとは、よく人がいう奴だが、俺にゃそのことわざが、さかさまで、これほど慕う子の心が、親の心には通じねえのだ。
おはま 忠太郎さん。
忠太郎 なんでござんす。
おはま もしあたしか母親だといったら、お前さんどうおしだ。
忠太郎 それを聞いてどうするんでござんす。あっしには判っている、おかみさんは今穏かに暮しているのが楽しいのだ。その穏かさ楽しさに、水も油も差して貰いたくねえ——そうなんだ
判ってらあ。小三十年も前の事あ、とうに忘れた夢なんだろう。親といい、子というものは、こんな風でいいものか。
(中略)
おはま それほどよく得心しているのなら、たって親子といわないで、早く帰っておくれでないか。
忠太郎 近い者ほど可愛くて、遠く放れりゃ疎くなるのが人情なのか。
おはま だれにしても女親は我が子を思わずにいるものかね。だがねえ、我が子にもよりけりだ—忠太郎さん、お前さんも親を尋ねるのなら、なぜ堅気になっていないのだえ。
忠太郎 おかみさん。そのお指図は辞退すらあ。親に放れた小僧っ子がグレたを叱るは少し無理。堅気になるのは遅蒔きでござんす。ヤクザ渡世の古沼へ足も脛まで突っ込んで、洗ったってもう落ちッこねえ旅にん癖がついてしまって、なんのいまさら堅気になれよう。よし、堅気で辛抱したとて、喜んでくれる人でもあることか裸一貫たった一人じゃござんせんか。ハハハハ。ままよ。身の置きどころは六十余州の、どこといって決まりの空の下を飛んで歩く旅にんに逆戻り、股旅草鞋を直ぐにもはこうか。
(瞼の母)
昭和8年2月15日、東京朝日新聞社会面に「奇遇小説以上、互に慕う47年、長谷川伸氏と生母、皮肉な運命に勝って再会」と題した記事が載った。
4歳で母と別れた。土木業の実家が没落して小学2年で退学。すし屋の出前、土木作業の人夫などから身を起こして独学。地方紙の記者、都新聞社を経て作家生活に入った。
〈瞼上下あはせりゃ闇に、浮いて出てくる母の顔〉。音信のなかった瞼の母との再会。その母は昭和21年に逝った。長谷川伸は人情の人であり「庶民の作家」であった。
昭和38年6月11日午後0時38分、〈生きることに疲れてしまった〉と言い残した作家は、東京築地の聖路加病院で心臓衰弱のため死去した。
自宅のあった白金台の近く、マンションとビルに囲まれたこの寺は「弘法大師御府内八十八ヶ所巡り」の第四番。金色の観音像が輝いている。本堂東横にある墓地は都心の駅辺にしては意外に広い。
喧噪が一瞬途切れた静寂の中にある「長谷川家墓」。
「新鷹会」という勉強会を開き、長谷川幸延、村上元三、山手樹一郎、山岡荘八、平岩弓枝、池波正太郎、西村京太郎など100人を超える作家と師弟関係をむすび、大衆作家の育成にも力を注いだ。
『関の弥太っぺ』『沓掛時次郎』『瞼の母』『一本刀土俵入り』『暗闇の丑松』など、世間から無視された人間の彷徨の姿を写して、長谷川伸はここに眠っている。母の名は見当たらない。
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