本名=長谷川海太郎(はせがわ・かいたろう)
明治33年1月17日—昭和10年6月29日
享年35歳(慧照院不忘日海居士)
神奈川県鎌倉市大町1丁目15–1 妙本寺(日蓮宗)
小説家。新潟県生。明治大学専門部卒。大正7年渡米、オハイオ・ノーザン大学に籍を置き各地を放浪。帰国後、14年谷譲次の筆名で『ヤング東郷』を発表。また林不忘の筆名で「探偵雑誌」に時代物を発表。さらに牧逸馬の名で『テキサス無宿』など現代物を発表した。『大岡政談』『この太陽』『丹下左膳』などの作品がある。

すね者というと、変につむじまがりか、さもなければ卑屈な人間が多いけれど、この蒲生泰軒先生のように、とてもほがらかに世の中をすねちやった人物は、ちょっとほかに類がないであろう。
いったい人間には。
ちやんと家庭をいとなみ、一定の住所をもち、確たる職業につき、それ相応の社会的地位をたもっていこうとする、いわば市民的なおもての生活のかげに。
一面……。
ともすれぱ無情を感じ隠遁を好み、一笠一杖、全国の名所寺社でも行脚して歩いたら、さぞいいだろうと思うような、反世間的な、放浪的な気もちがあるものです。
人によって、その思う度合いはちがい、また、考えのあらわれ方も異なりますが、だいたい人間は、ことに東洋人は、誰しも、この現実の俗な責任と、それにたいして反動的な、無責任な逃避を欲する心と、内心、この二つのたたかいにはさまれて生きているといっていい。
ですから。
ここに。
はじめっからその社会生活を拒絶している人があったとしたら、その人はある意味で、ずば抜けたえらい人だと言わなければなりません。
(丹下左膳)
林不忘の本名は長谷川海太郎。詩人長谷川四郎の兄である。他にも谷譲次、牧逸馬と、合わせて三つの筆名があった。新潟に生まれ、異国情緒にあふれた港町函館で育った。函館中学校を中退して上京の後に渡米、7年に及ぶアメリカ生活で体得した日本人の彷徨する想いを三つの筆名で使い分け、それぞれの物語や文体にのせて大正末期から昭和初年にかけて怒濤のごとく作品を発表し、江戸川乱歩から〈文筆実業家〉と評されるほどの流行作家となった。鎌倉に通称「からかね御殿」なる豪勢な新居も構えた。彼が執筆中にこの新居で急死するのは、昭和10年6月29日、強い雨の吹きつける朝であった。病名は脳溢血と発表されたが、持病の喘息からなる窒息死であった。
ここ鎌倉大町の妙本寺には詩人田村隆一の墓もある。境内にある比企一族供養塔の近く、本堂脇地続きの墓域に〈文壇のモンスタア〉と称されるほどエネルギッシュな執筆活動を続け、三つの筆名を操った作家の墓があった。冬の午後とはいえ、楓葉の散り乱れた塋域の、石塊の上に載った碑に陽光は届いてこない。以前は正方形の碑面にようやく「長谷川海太郎墓」の文字が読み取れるほど古びていたのだが、しばらく見ないうちに墓石も新しくなり、碑面の刻字も「長谷川家」と変わっている。右脇の碑には「長谷川海太郎 一人三人全集の作家」に続いて林不忘、牧逸馬、谷譲次の筆名とそれぞれの代表作である『丹下左膳』『世界怪奇実話』『テキサス無宿』の文字が記されてあった。
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