凍てついた朝。
青白い陽ざしに照らされたサザンカの紅い花弁とこわばった緑葉の輪郭を眼でなぞりながら、一途の道をありありと生きた橋本多佳子を遠く想っています。
10年以上も前になるのでしょうか、<四T>と称された女流俳人の中村汀女、星野立子、三橋鷹女、橋本多佳子のうちの3人までは「文学者掃苔録」に掲載することができましたけれども、どうしても橋本多佳子の墓所だけは探すことができずに日々を重ねておりました。
最近になって、中野の図書館で、ある作家の資料を探しているとき偶然に「橋本多佳子全集」を手にすることができ、その中に〈夫の墓地阿倍野にあり〉と添え書きされた「事告げて帰へる萩むら風の中」という句や豊次郎が生前に墓を作り、自分と多佳子の戒名を刻んで年月日を入れれば良いだけのようにしていたとの記述を年譜で見つけたことから手探りに、大阪・天王寺駅にほど近い市営南霊園を訪ねて、ようやく念願の墓参りを果たすことができました。
いつの時の掃苔も
黙して悲しく
去り難い気持ちの裏に
遠い時間は最も近い
暗い空の隙間から白い光が射し込んで
折々のつながりは
ただこのときにこそ行き着くのだ
今回掲載した橋本多佳子の祖父山谷清風は、山田流箏曲の家元で検校だったといいます。旗本屋敷に出入りし、琴を教えていましたが、御維新で没落し、祖母は女手で3人の娘を育てることになります。その長女が多佳子の母津留であり、家を継がすため役人であった雄司を養子に迎えています。
多佳子は明治32年1月15日、東京市本郷区龍岡町8番地に生まれました。
多佳子の本名は多満。多佳子4歳の時に妹の登喜江が生まれますが、明治38年、隅田川富士見の渡し場が見渡される浅草区河原町28に移住しています。半町ほど先に、のちの3代目左團次となった荒川きよしが住んでいました。眼が大きい事から「目玉のタマちゃん」と呼ばれていた多満の子供仲間でした。浅草区福井町の福井小学校に入学しましたが、虚弱で欠席が多かったといいます。
明治42年7月に父雄司が死去、翌年、母の実家に近い本郷湯島天神下に母子3人で移り住み、湯島小学校に転入しました。明治44年に湯島小学校を卒業し、菊坂女子美術学校(現・東京女子美術大学)日本画科に入学しましたが短期間で退学。肋膜を病み東大病院に入院し、7月に退院すると千葉県大原海岸の知人宅へ転地します。
大正3年に祖父山谷清風の後継として琴の「奥許」を受けました。母は祖父の名跡を継がせるため、6歳の時、名手といわれた盲目の中田光勢や萩原松韻に琴を習わせましたが、虚弱で学校も欠席がちの多満も琴の稽古だけは休まなかったようです。物覚えがよく師の中田光勢が3度弾くだけで、たいていの曲を覚え、奥許の弾初の会には山田流流祖の山田検校の代表曲の一つ「熊野(ゆや)」を弾いています。
また京風の三味線にも長じましたが、後年、「十八の時まで芸一途の明け暮れでしたが、運命は私を結婚に導きました。最初反対していた母も、琴の修行をつづけるという約束でゆるしてくれました。」と記しているように大正6年、18歳の時に大阪橋本組の創立者橋本料左衛門の次男で、米国で建築を学んだ11歳年上の建築家・実業家の豊次郎と結婚。東京を離れ、大阪に居を構えました。また、嫁すと同時に姓名判断に凝っていた叔母から、是非とも「たか子」と変えるようにと無理じいされます。
それ以後の小倉時代、杉田久女との交わり、山口誓子とのこと、奈良の日吉館、あやめ池での生活などは周知のこと、これが年譜(橋本多佳子全集・堀内薫編)からとった橋本多佳子の東京時代の略歴です。
多佳子が6歳まで生まれ育った東京市本郷区龍岡町8番地は、池之端の旧岩崎邸庭園の西側、森鴎外の「雁」の舞台となった無縁坂をのぼり、講安寺の先を左に入って、少し進んだ三菱資料館の道を挟んだ向かい側にある文京区青少年プラザのあたりになります。移住した浅草瓦町から父の死によって再び移ってきた本郷湯島天神下や転入した湯島小学校も目と鼻の先になり、菊坂の女子美術学校も東京大学を挟んだ至近距離にありました。また東京大学の龍岡門や鉄門はなお近くです。
以前にも書いたように、この周辺は根津権現の表鳥居からS字坂をのぼり、東京大学地震研究所の門から入って東京大学構内をめぐり、龍岡門から無縁坂をくだって、不忍池畔に至るという私の散歩コースの一つで、不忍池を一周したり、時には上野公園まで足を伸ばしてみたりもしています。
多佳子の祖母、母、そして多佳子自身も連れ合いを早くに亡くし、女手に幼い子供たちを羽交の下に育てたといいます。
多佳子の実家である山谷家の墓所は、新吉原への水上路として隅田川から遊廓入り口の大門近くまで遊客を乗せた猪牙舟が行き来した山谷堀(今は暗渠になっている)がすぐ裏に位置する金龍山遍照院にあります。
かつて生涯93回も転居したと言われている葛飾北斎は、遍照院の境内西側に建っていた「狸長屋」という長屋に、晩年住んでおり、嘉永2年(1849年)にそこで息を引き取りました。
遍照院は江戸時代から浅草寺を囲むようにして三十数カ所あった子院のひとつですが、現在は敷地もわずかとなり本堂もモダンな建物に変貌しています。
本堂右手に下町の寺院特有の狭小墓地があり、隣家との塀際に雨に濡れて古びれた小さな墓が建っていました。橋本多佳子の筆と思われる「山谷家の墓」の右側面に父雄司、母津留、妹登喜江の戒名と没年、俗名が刻まれ、左側面に「昭和三十年九月吉日建之/施主 橋本多満」とありました。
多佳子に知らず知らずのうち「一途の道」を教え、生家であった琴の名跡が絶えているのを多佳子に継がせたかった母津留は、昭和17年11月7日、衰えた日々の看取りを多佳子から受けて82歳で亡くなリました。多佳子は遍照院に葬られた母に「武蔵野の樹々が真黄に母葬る」「母葬る土美しや時雨ふる」の二句を捧げています。
多佳子は母の望みとは違えて18歳で大阪の橋本豊次郎に嫁し、昭和12年9月30日、38歳で寡婦となってしまいました。無縁坂上の本郷龍岡町で生まれ、いつも母からは「たまさん」、幼い友達には「おたまちゃん」と呼ばれていた無縁坂のおたまだった頃の追想は遥けくも、昭和38年5月29日、肝臓・胆嚢がんにより大阪回生病院で64年の生涯を閉じました。
遺作二句
雪の日の欲身一指一趾愛し
雪はげし書き遺すこと何ぞ多き |