後記 2004-12-01


 

 蜃気楼のように危うい月が浮かぶ夕景だった。
 やがては、ゆるやかな広がりの彼方から漠涼とした湿気が漂いはじめると、薄闇色の雲はおもむろに流れだし、余韻をのこしていた光彩も、冷たく張りつめた野露のなかに移り住むような夜が来る。聖域から外れて建てられた何某かの墓標がひとつ。風音は低く、ためいきが露に濡れ、黒ずんだ笹原に蹲る地平線。ひとしきりの虫の宴は鳴りやみ、遠く墓道を横切っていく自動車の光線が大気を突き抜ける一瞬、葉蔭から響いてくる幽かな心音を聞いたように思った。ただそう思っただけかも知れない。あるいは自分自身の心音だったのか。つづけてあてもない言葉が――静謐を包む者に………戸惑いを自覚する者に……。
 正直のところ、私は疲れていた。この旅は長かったのだ。昼も夜もなかった。野をわたり峠を登りつないで、やっとここに辿り着いたら笹原に座り込むしかなかったのだ。もう一度その言葉を聞きかえす気力もなく、それほど深く考えもしなかった。香ばしい色彩だけを感じ、見事に区分けされた岐路を呆然と見失ってしまうことだけが私の領域だったように。

 西風が叩いているこの窓の外には、一本の痩せこけた樹木がいつものように立っています。私はこの枝葉をながめながら秋も冬も、春も夏も醒めることのない旅をしているのですが、ある日、脱皮するように剥がれ始めた樹皮の割れ目から思いがけない詩人が現れてきました。

 田久保英夫「滞郷音信」、自在に飛翔する言葉の魂。

  ミニヨルニタ
  今朝 この円形劇場の緑のしとねの上で 私は羚羊の脚をたべた
  羚羊の すきとほつた腿のうへに 梨の花を振りかけてたべた
  君が結んでくれた魔法瓶の白い飾りは もうない 私はそれをピポの石像の下に落してきた
  三時 私はピポの石像のしたで 鳶色の目をした女と話をした
  そして九時 私はふたたびそこへ行つた
  鳶色の目をしたその女は 私のことを 破風にとまつた鳥だといつた
  ミニヨルニタ
  私のくにでは 未来のことを破風といふ 男のことを 鳥といふ
  破風にとまつた鳥とは 君のくにの言葉で予言者といふことだ
  ミニヨルニタ
  君は魔法瓶に 白いかざりを結んでくれたが それはもうない
  私はそれを忘れてしまつた 鳶色の眼の女と話しながら 光の風船が
  ピポのおでこにあたつて碎けるのを眺めながら 忘れてしまつた
  私はそれを探しにいつた ちょうど九時 君が聖火を上げてぬかづきをする頃 
  私は 劇場の柱と石像との ながい影のあひだを歩いてまはつた

  魔法瓶をのぞけば
  きんきら
  ハツカ酒の彼方に 
  沈んでいくのは
  劇場の庭の緑 
  女神の額の白い灰
  わたしのまな差しは
  夜空の中にきえていく風船
  梨の花
  魔法瓶はかなしい
  猫眼石いろの
  わたしの若年はかなしい

  ミニヨルニタ
  今朝私は羚羊の脚をたべながらこんないい詩をかいた 私はきつと まだまだいい詩がかける
  あの女は 私を破風にとまつた鳥だといつた 私は予言者ではない
  しかしいまにさうなるのだ
  ミニヨルニタ
  私は元気でゐる
  私のくにでは 氷雨のことを元気といふが 君の元気を 悪魔がすっかり浚つてくれるやうに
 

 「詩は私にとって、創作のノートの一番大事な部分であるといえる。かって私は、ものを書く上で非常な不自由さ――大げさにいえば精神の窮屈さを感じていた時期があった。私はそこから救い出してくれたものは詩であったといっていい。時にはある詩を書くことによっていっそう不自由な自分を感じたりしたが、それにたえることを教えてくれたのはやはり詩であった。」と、詩への思いを大学ノートに記しています。遺された十数冊の大学ノート、美世子夫人がこのノートを読んだのは田久保英夫の死後のことであったと詩文集のあとがきにありました。

 窓は開け放たれ、わずかな記憶に残っていた内なる声が湧き水のように蘇ってきました。―――何が原因だか分からないのだが、それでも僕は眠りたいのだ。静謐を包む者に最初の旅は訪れ、戸惑いを自覚する者に果てしもない悲しみは去ろうとしている。―――

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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